廃止路線を訪ねて⑦ 赤谷線
2015-05-18
特定地方交通線83線区に認定された「赤谷線」は、新潟県に存在した国鉄路線であった。新発田~東赤谷間18.9kmと短いが「赤字」という名のレッテルを貼られ、他の赤字路線とともに消えていった。廃止が「ブーム」とはなんとも皮肉であったが、私はこの時期、中学から高校へのステップの途中にあり「春休み」のさなかの1984年3月の訪問となった。1984年3月と言えば、なんといっても「西寒川」が廃止された時期でもあり、私自身の住処の真ん前でも「ブーム」が到来していて、時代の波に乗った感じだ。そんな中、中学校のクラブ活動「鉄道研究クラブ」は私が卒業してもクラブ自体は存続が決定し、後輩たちも私が在籍していた頃より若干増えた。という事で、このクラブ活動の存在意義を疑われずに済んだ・・・そして赤谷線への訪問はこの「鉄研」のクラブ活動として行われ、私は「卒業生」として参戦した。

(1984年の廃止直前に訪問した新発田駅にて。わりに地味な存在であった赤谷線であるが、終点の東赤谷はスイッチバック式であった珍しさから、レールファンの間ではそれなりに認知度があった。)
確か計画自体は私が企てたが、同時期に廃止される「魚沼線」へは参戦できなかった。それは帰りの列車が無かったためだ。当時、青春18切符で新潟を訪問する手段としては普通夜行列車の「上野発長岡行き」が下りのみ夜行で設定されていたが、上りは何故か設定無し。現在は臨時ながら「ムーンライトえちご」があって便利であるが、当時は113系の近郊型車両であったので「夜行」の雰囲気は全く無し。普通にセミクロスシートであり、途中駅は若干通過するものの、ほぼ各駅に停車した。勿論、あの有名な「土合」も・・・
未明の長岡で新潟行きに乗り換える。4時45分に到着し5時14分発だった記憶があるので約30分のインターバルであるが、途中「押切」くらいではもう明るくなっていたはずである。後輩たちはこういう旅に免疫がないためか、長岡行きではなかなか寝付けずにいたが、乗り換えたこの列車ではすでに夢の中である。私は新潟の雪景色をしっかり堪能。「トンネルを抜けると・・・」の銀世界に包まれた新潟県は「米処」の役割を再開するまで「一休み」。そんな事を考えながら赤谷線を目指す中学卒業生はいささか異常?かも知れない。

(路線名にもなっている赤谷。できれば下車してみたかったが、時間の成約から実現できなかった。しかも当時は「18」での訪問であったので、乗車できる列車にも制約があり、なかなかの体力勝負となった。)
さて、白新線を制覇した後、いよいよ赤谷線の待つ新発田へ。当然廃止発表後の訪問のため「同業者」が多数参戦、朝の小田急線上り列車並みの乗車率だ。普段は多分2両編成とかであろうが、今回はキハ58が3~4両連結されている。恐らくこのまま終点の東赤谷まで同じ顔ぶれであろう。
当時を思い出してみようとしたが、ハッキリ言って途中の記憶が薄い。だが、終点の東赤谷はしっかり記憶にあった。当時、唯一の終点駅でありながらスイッチバック駅であった。一度駅前を通り過ぎ進行方向を変更し東赤谷駅のホームに進入する。なかなか特徴があるが、かつてはここから鉱山への専用線が分岐していた。その専用線にも訪問してみたかったが、そんな余裕はなかった。3月の東赤谷は雪に包まれすでに「先客」で溢れかえっているが、列車到着後、更に増えたため駅がごった返した。鉄道ファンと捉えるには若干時間がかかりそうな「親子連れ」なども参戦。というより地元の方であろうと推測。赤谷線のファン層の厚さを見せ付けられた(若干大袈裟か?)。

(終点の東赤谷。先述通り終点駅でありながらスイッチバックという構造の珍しさ。もしかしたら開業以来初の大盛況であったのでは?)
この後「普通列車」で関東地区への帰郷となるわけだが、できれば新幹線で帰りたい。しかし、自ら「青春18」を選択した以上、それは許されない。今回は顧問の教諭の他に「ゲスト」教諭も参戦している、合計12名の大所帯。若干日も暮れてきた感の「国境越え」であるが、トンネルを抜けると、そこは・・・

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(1984年の廃止直前に訪問した新発田駅にて。わりに地味な存在であった赤谷線であるが、終点の東赤谷はスイッチバック式であった珍しさから、レールファンの間ではそれなりに認知度があった。)
確か計画自体は私が企てたが、同時期に廃止される「魚沼線」へは参戦できなかった。それは帰りの列車が無かったためだ。当時、青春18切符で新潟を訪問する手段としては普通夜行列車の「上野発長岡行き」が下りのみ夜行で設定されていたが、上りは何故か設定無し。現在は臨時ながら「ムーンライトえちご」があって便利であるが、当時は113系の近郊型車両であったので「夜行」の雰囲気は全く無し。普通にセミクロスシートであり、途中駅は若干通過するものの、ほぼ各駅に停車した。勿論、あの有名な「土合」も・・・
未明の長岡で新潟行きに乗り換える。4時45分に到着し5時14分発だった記憶があるので約30分のインターバルであるが、途中「押切」くらいではもう明るくなっていたはずである。後輩たちはこういう旅に免疫がないためか、長岡行きではなかなか寝付けずにいたが、乗り換えたこの列車ではすでに夢の中である。私は新潟の雪景色をしっかり堪能。「トンネルを抜けると・・・」の銀世界に包まれた新潟県は「米処」の役割を再開するまで「一休み」。そんな事を考えながら赤谷線を目指す中学卒業生はいささか異常?かも知れない。

(路線名にもなっている赤谷。できれば下車してみたかったが、時間の成約から実現できなかった。しかも当時は「18」での訪問であったので、乗車できる列車にも制約があり、なかなかの体力勝負となった。)
さて、白新線を制覇した後、いよいよ赤谷線の待つ新発田へ。当然廃止発表後の訪問のため「同業者」が多数参戦、朝の小田急線上り列車並みの乗車率だ。普段は多分2両編成とかであろうが、今回はキハ58が3~4両連結されている。恐らくこのまま終点の東赤谷まで同じ顔ぶれであろう。
当時を思い出してみようとしたが、ハッキリ言って途中の記憶が薄い。だが、終点の東赤谷はしっかり記憶にあった。当時、唯一の終点駅でありながらスイッチバック駅であった。一度駅前を通り過ぎ進行方向を変更し東赤谷駅のホームに進入する。なかなか特徴があるが、かつてはここから鉱山への専用線が分岐していた。その専用線にも訪問してみたかったが、そんな余裕はなかった。3月の東赤谷は雪に包まれすでに「先客」で溢れかえっているが、列車到着後、更に増えたため駅がごった返した。鉄道ファンと捉えるには若干時間がかかりそうな「親子連れ」なども参戦。というより地元の方であろうと推測。赤谷線のファン層の厚さを見せ付けられた(若干大袈裟か?)。

(終点の東赤谷。先述通り終点駅でありながらスイッチバックという構造の珍しさ。もしかしたら開業以来初の大盛況であったのでは?)
この後「普通列車」で関東地区への帰郷となるわけだが、できれば新幹線で帰りたい。しかし、自ら「青春18」を選択した以上、それは許されない。今回は顧問の教諭の他に「ゲスト」教諭も参戦している、合計12名の大所帯。若干日も暮れてきた感の「国境越え」であるが、トンネルを抜けると、そこは・・・

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コメント
東赤谷
すんや様
コメントありがとうございます。
今回の赤谷線の記事は以前にも紹介していますが、新しく私のブログを訪問してくれた方にも「国鉄」を知っていただこうと若干リメイクしてアップしてみました。
ところで、2年ほど前の訪問とは実に素敵ですね。私もできれば行ってみたいです。ですが、「遺構がほとんど残っていない」のは残念ですね。
私の訪問時は当然ながら「同業者」や多数のギャラリーが参戦していて、さながら「小田急線」並みの混雑度でした。特に終点の東赤谷では地元民と思われる親子などが多数溢れていました。
もし、現在の私がタイムマシンに乗り当時の赤谷線を訪問していたなら完全に違った感性でこの廃止情報を捉えていたでしょう。本文にも出てきますが、同じ時期に「魚沼線」そして「寒川支線」こと西寒川も同じ運命を辿ったとはなんとも感慨深く思います。
今回の赤谷線の記事は以前にも紹介していますが、新しく私のブログを訪問してくれた方にも「国鉄」を知っていただこうと若干リメイクしてアップしてみました。
ところで、2年ほど前の訪問とは実に素敵ですね。私もできれば行ってみたいです。ですが、「遺構がほとんど残っていない」のは残念ですね。
私の訪問時は当然ながら「同業者」や多数のギャラリーが参戦していて、さながら「小田急線」並みの混雑度でした。特に終点の東赤谷では地元民と思われる親子などが多数溢れていました。
もし、現在の私がタイムマシンに乗り当時の赤谷線を訪問していたなら完全に違った感性でこの廃止情報を捉えていたでしょう。本文にも出てきますが、同じ時期に「魚沼線」そして「寒川支線」こと西寒川も同じ運命を辿ったとはなんとも感慨深く思います。
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2年ほど前、東赤谷駅の駅跡へ訪問する機会がありましたが、当時の遺構はほとんど残っておらず、本当にここに駅や集落があり人々の営みがあったのか疑わしいほどの変わりようでした。
当時現地に訪問したダイヤモンド☆トナカイさまであれば、また違った印象で見ることができるのでしょうね。