「西寒川駅」に拘る!①
2016-06-26
以前に西寒川駅に関しては当ブログにて紹介しているが、もっとより多くの方に「西寒川駅」を知っていただきたく、数回に渡り記事をアップしてみようと思う。既に前回の記事や、私のホームページ「西寒川駅」と重複する部分もあろうかと思うが、改めて紹介してみたい。
国鉄時代の昭和50年代頃の相模線・寒川支線は当然ながら砂利輸送などの貨物列車は既に営業を終え旅客のみとなっていた。寒川駅構内に側線の撤去跡や無駄にやや広い空間があるが、そこに西寒川方面へのレールとホームがあったと各方面で誤解されている記事を多く見かける。実際は、橋本方面も西寒川行きも本線の島式ホームより発着しており西寒川へ向かう寒川支線専用のホームは無かった。寒川駅の側線撤去跡は寒川支線の「名残」の表現は正しいがそれは貨物輸送をしていた砂利輸送や日東タイヤ方面(海軍工廠)への「貨物輸送時代の名残」の表現が正しいといえよう。また、寒川支線廃止直前には寒川駅西側と駅舎のある東側を結ぶ跨線橋が完成、いわゆる「裏口」からの利用も便利になり、寒川駅も進化したものだと子供ながらに感じていた。また、駅舎が地上にあり、その駅舎側にレールのはがされた(いや、レールがあったと思われるが記憶が定かではない)一面一線のホームがあった。貨物ホームであったのか旧旅客ホームだったのかは不明であるが、現在は跨線橋の土台となりホームの痕跡は無い。その後、駅舎は跨線橋側に移り橋上駅舎に生まれ変わった。

(1984年の、多分2月であったと思う。雪化粧の西寒川駅の写真を所有しているのは、日本全国探しても恐らく私だけであろう。ただ、写真中央に私の「マイカー」が写り込んでしまったのが少々計算外であったが・・・)
寒川より橋本方面に向かい、線路はすぐに「大山踏切」付近でいったん全て収束し、踏み切りを過ぎるとすぐに本線と寒川支線の分岐点があった。本線と暫く単線並列で並走するが、寒川神社の参道入り口付近で二股に別れ、寒川支線は南西に折れていく。更に本線方面は本線沿いにやや進むと川寒川へと続く支線(というか当時は寒川駅構内側線扱いの砂利貨物支線)へ枝分かれする名残が見られるが、川寒川の現在はほぼ痕跡は確認できない。
西寒川方面への支線は寒川中学校と住宅街を進行方向左手に見るが、やがて左手に不自然な空地が現れた。現在は一之宮公園となっているが、当時は広大な空地となっていて、高い塀で囲まれており、通常は中に入れない仕組みになっていたが、子供たちにとって見れば格好の遊び場となり、私もよくお世話になった記憶がある。右側にも某工場のグラウンドがあり、そちらでも若干お世話になった感じである。その空地やグラウンドを過ぎると住宅街になるが、かつては畑であった。その住宅街付近から減速し踏切を通過すると西寒川に到着する。寒川~西寒川間1.5kmを約4分かかるという事は、表定速度は約20km/h強となるが、実際に全線通して20~30km/hの徐行運転である。

(申し訳ないが、またまた私の「マイカー」が写り込んでしまっている。別に歩きでも来れる距離ではあるのだが・・・)
駅前は四之宮方面にむかう車道が一本あり商店などの建造物は無く、駅裏手が住宅街となっている。駅前には大きな壁が立ちふさがっているが、それこそかつての「昭和産業」であり、後の「日東タイヤ」であった。駅前の道路を右手に行くとかつての四之宮への線路跡の空間が容易に判別できるが、所々に住宅や工場などに変化している。そのまま進むとやがて新明和工業の前に着く。そして新明和工業を過ぎるとすぐに築堤に向かう道がある。築堤に登ると西側に野球グラウンドなどの広い空間があるのだが、こここそが旧「四之宮駅」であった場所だ。広さから想像するに2~3本の側線があったと推測できるが、真意は不明である。付近は工場しかなく、というか、砂利採取当時は付近には旅客の収入源になるような施設等は無く、完全に「秘境駅」と認定できたであろう風景であったかも知れない。
旧四之宮に向かう途中には理髪店があったが現在は廃業している。また、西寒川駅より左手すぐにも理髪店があるが、そちらは現在も健在である。ちなみにどちらも女性の理髪師であった。西寒川周辺では理髪業はかなり儲かるのであろうか気になるところではあるが・・・
さて、西寒川駅を一般道で行くには一之宮小学校横を通る県道より向うが、途中で信号の無いYの字交差点を左折する。しかし西寒川駅への案内表示は無く、初めて来る人には非情にわかりづらかった。後年に信号が設置されたが、それで西寒川駅の所在が分かりやすくなるという事でもなかった。しかし、当時「日東タイヤ」は抜群の知名度であったため、例えば茅ヶ崎からタクシーなどで西寒川駅に向うときに「日東タイヤ」の名前を出せばほぼ100%の確率で西寒川駅に辿り着く事が出来たであろう事を付け加えておこう。

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国鉄時代の昭和50年代頃の相模線・寒川支線は当然ながら砂利輸送などの貨物列車は既に営業を終え旅客のみとなっていた。寒川駅構内に側線の撤去跡や無駄にやや広い空間があるが、そこに西寒川方面へのレールとホームがあったと各方面で誤解されている記事を多く見かける。実際は、橋本方面も西寒川行きも本線の島式ホームより発着しており西寒川へ向かう寒川支線専用のホームは無かった。寒川駅の側線撤去跡は寒川支線の「名残」の表現は正しいがそれは貨物輸送をしていた砂利輸送や日東タイヤ方面(海軍工廠)への「貨物輸送時代の名残」の表現が正しいといえよう。また、寒川支線廃止直前には寒川駅西側と駅舎のある東側を結ぶ跨線橋が完成、いわゆる「裏口」からの利用も便利になり、寒川駅も進化したものだと子供ながらに感じていた。また、駅舎が地上にあり、その駅舎側にレールのはがされた(いや、レールがあったと思われるが記憶が定かではない)一面一線のホームがあった。貨物ホームであったのか旧旅客ホームだったのかは不明であるが、現在は跨線橋の土台となりホームの痕跡は無い。その後、駅舎は跨線橋側に移り橋上駅舎に生まれ変わった。

(1984年の、多分2月であったと思う。雪化粧の西寒川駅の写真を所有しているのは、日本全国探しても恐らく私だけであろう。ただ、写真中央に私の「マイカー」が写り込んでしまったのが少々計算外であったが・・・)
寒川より橋本方面に向かい、線路はすぐに「大山踏切」付近でいったん全て収束し、踏み切りを過ぎるとすぐに本線と寒川支線の分岐点があった。本線と暫く単線並列で並走するが、寒川神社の参道入り口付近で二股に別れ、寒川支線は南西に折れていく。更に本線方面は本線沿いにやや進むと川寒川へと続く支線(というか当時は寒川駅構内側線扱いの砂利貨物支線)へ枝分かれする名残が見られるが、川寒川の現在はほぼ痕跡は確認できない。
西寒川方面への支線は寒川中学校と住宅街を進行方向左手に見るが、やがて左手に不自然な空地が現れた。現在は一之宮公園となっているが、当時は広大な空地となっていて、高い塀で囲まれており、通常は中に入れない仕組みになっていたが、子供たちにとって見れば格好の遊び場となり、私もよくお世話になった記憶がある。右側にも某工場のグラウンドがあり、そちらでも若干お世話になった感じである。その空地やグラウンドを過ぎると住宅街になるが、かつては畑であった。その住宅街付近から減速し踏切を通過すると西寒川に到着する。寒川~西寒川間1.5kmを約4分かかるという事は、表定速度は約20km/h強となるが、実際に全線通して20~30km/hの徐行運転である。

(申し訳ないが、またまた私の「マイカー」が写り込んでしまっている。別に歩きでも来れる距離ではあるのだが・・・)
駅前は四之宮方面にむかう車道が一本あり商店などの建造物は無く、駅裏手が住宅街となっている。駅前には大きな壁が立ちふさがっているが、それこそかつての「昭和産業」であり、後の「日東タイヤ」であった。駅前の道路を右手に行くとかつての四之宮への線路跡の空間が容易に判別できるが、所々に住宅や工場などに変化している。そのまま進むとやがて新明和工業の前に着く。そして新明和工業を過ぎるとすぐに築堤に向かう道がある。築堤に登ると西側に野球グラウンドなどの広い空間があるのだが、こここそが旧「四之宮駅」であった場所だ。広さから想像するに2~3本の側線があったと推測できるが、真意は不明である。付近は工場しかなく、というか、砂利採取当時は付近には旅客の収入源になるような施設等は無く、完全に「秘境駅」と認定できたであろう風景であったかも知れない。
旧四之宮に向かう途中には理髪店があったが現在は廃業している。また、西寒川駅より左手すぐにも理髪店があるが、そちらは現在も健在である。ちなみにどちらも女性の理髪師であった。西寒川周辺では理髪業はかなり儲かるのであろうか気になるところではあるが・・・
さて、西寒川駅を一般道で行くには一之宮小学校横を通る県道より向うが、途中で信号の無いYの字交差点を左折する。しかし西寒川駅への案内表示は無く、初めて来る人には非情にわかりづらかった。後年に信号が設置されたが、それで西寒川駅の所在が分かりやすくなるという事でもなかった。しかし、当時「日東タイヤ」は抜群の知名度であったため、例えば茅ヶ崎からタクシーなどで西寒川駅に向うときに「日東タイヤ」の名前を出せばほぼ100%の確率で西寒川駅に辿り着く事が出来たであろう事を付け加えておこう。

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コメント
首都圏色
コメントありがとうございます!
首都圏の気動車は相模線が基本ですからね。まぁ、八高線や川越線(当時)もありましたが、やはり寒川町民などが地方へ旅へ行きキハ30などを見ると「アッ、相模線だ」と異口同音に発します。
次回アップの記事は西寒川駅の現役時代の写真と現在の西寒川駅を順番に紹介したいと思います。
首都圏の気動車は相模線が基本ですからね。まぁ、八高線や川越線(当時)もありましたが、やはり寒川町民などが地方へ旅へ行きキハ30などを見ると「アッ、相模線だ」と異口同音に発します。
次回アップの記事は西寒川駅の現役時代の写真と現在の西寒川駅を順番に紹介したいと思います。
ダイヤモンド☆トナカイ様
懐かしい光景ですねぇ
とは言え…
何も覚えていないのが実情でして…
当時は乗り潰しの他は、旧式の電気機関車、電車、客車ばかりを狙っておりまして
写真はそればかり撮っていまして…
もう少ししっかり撮っていたなら…と、後悔の涙状態です…
とは言え…
何も覚えていないのが実情でして…
当時は乗り潰しの他は、旧式の電気機関車、電車、客車ばかりを狙っておりまして
写真はそればかり撮っていまして…
もう少ししっかり撮っていたなら…と、後悔の涙状態です…
にわか者様
コメントありがとうございます。
コメントのご意見、私も似たような感じです。というより、それこそ価値のあるものでしょう。よく人は新しいもの、流行のものを求めがちですが、古いものはいずれ消えていくものですから写真など、しっかりとした記憶と形で残したいですね。
そして流行のものですが、流行イコール「はやっている」ものという事は他の人も同じ事をしているという事ですよね?「私、流行に敏感なの」みたいな人もいますが、それってオリジナルではなく「人の真似」だと私は思います。私はできれば「オリジナル」の方が好きなので、自身の個性を主張できるようなブログを目指しています。
ちょっと話が脱線しましたが、というより私のブログの趣旨からして「脱線」という表現はよろしくないと思いますが、私もにわか者さんと同様、古い物・昔の物的な鉄道関係をターゲットにブログで表現していきたいと思いますのよろしくお願いいたします。
ただ、今回の記事は前回とやや重複する部分もあると思いますが・・・
コメントのご意見、私も似たような感じです。というより、それこそ価値のあるものでしょう。よく人は新しいもの、流行のものを求めがちですが、古いものはいずれ消えていくものですから写真など、しっかりとした記憶と形で残したいですね。
そして流行のものですが、流行イコール「はやっている」ものという事は他の人も同じ事をしているという事ですよね?「私、流行に敏感なの」みたいな人もいますが、それってオリジナルではなく「人の真似」だと私は思います。私はできれば「オリジナル」の方が好きなので、自身の個性を主張できるようなブログを目指しています。
ちょっと話が脱線しましたが、というより私のブログの趣旨からして「脱線」という表現はよろしくないと思いますが、私もにわか者さんと同様、古い物・昔の物的な鉄道関係をターゲットにブログで表現していきたいと思いますのよろしくお願いいたします。
ただ、今回の記事は前回とやや重複する部分もあると思いますが・・・
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廃線跡を歩くと時代の流れを感じると思います。
話は変わりますが、国鉄気動車の首都圏色って相模線の車両から塗り替えられたんですよね。ある意味「相模線色」ですね。