「西寒川駅」に拘る!②
2013-01-15
西寒川駅は、相模線・寒川起点1.5kmの地点、神奈川県高座郡寒川町一之宮に存在した相模線・寒川支線の唯一の駅であり終点で、駅員無配置駅であった。駅前は工場となっており、寒川起点進行方向左側に一面一線のホームがあった。切符を買うには、車内で車掌より買い求めた。寒川方面から西寒川に向う列車では、寒川~西寒川間で西寒川に着く前に車内で車掌が切符を回収していた。私の知っている当時は1日4往復のディーゼルカーが朝1本、夕方3本しか設定されていなかったため、茅ヶ崎方面から乗車した客が橋本方面へ向うため誤って西寒川行きに乗車してしまうケースがしばしばあった。列車は全て茅ヶ崎~西寒川間の直通で運転されており、寒川~西寒川間の区間列車は無かったが、営業最終日の昭和59年3月31日には寒川~西寒川間の区間運転が臨時ながら5往復設定された。

ホームの長さは50m57cm、幅2m7cm、改札からホームまでの長さが5m57cmであった。これは、ある夜最終列車が去った後、私自身が実際に西寒川駅に出向き測定したものである。二両編成の列車のみしかカバーできず、3両以上の編成ではホームから列車がはみ出てしまうため、はみ出た車両はドアを閉じたままとなっていた。そのはみ出た車両のすぐ先に県道と交点の場所に第3種踏切があり、西寒川から列車出発の際、車掌が出発直前に警報機を鳴らす操作をした。駅の照明は暗くなると自動的に点灯し、明るくなると自動的に消灯する仕組みになっていたが、最終列車が行った後も点灯しており、子供ながらに国鉄の経営的な事を考えてしまった。列車は、昭和50年頃はキハ10、53年頃よりキハ20、54~55年頃より全てキハ35となった。昭和59年4月に廃止後、神奈中バス「西一之宮」というバス停が旧西寒川駅前に設置され、いわゆる「代替バス」となったが、運転本数は相模線より約7倍に増えたので、交通機関としては便利になった。行き先は茅ヶ崎駅であったが、現在は寒川駅行も出来た。現在の西寒川駅跡は「八角広場」という広場に生まれ変わり、バス停の停留所名も「八角広場前」に変更され、広場には鉄道の駅が存在した証がいくつか残されている。また旧寒川支線の線路跡は殆んどの場所が遊歩道に変換されているが、途中、一之宮公園内の一部は線路がそのまま保存されてており、往時を偲ぶことが出来る。


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ホームの長さは50m57cm、幅2m7cm、改札からホームまでの長さが5m57cmであった。これは、ある夜最終列車が去った後、私自身が実際に西寒川駅に出向き測定したものである。二両編成の列車のみしかカバーできず、3両以上の編成ではホームから列車がはみ出てしまうため、はみ出た車両はドアを閉じたままとなっていた。そのはみ出た車両のすぐ先に県道と交点の場所に第3種踏切があり、西寒川から列車出発の際、車掌が出発直前に警報機を鳴らす操作をした。駅の照明は暗くなると自動的に点灯し、明るくなると自動的に消灯する仕組みになっていたが、最終列車が行った後も点灯しており、子供ながらに国鉄の経営的な事を考えてしまった。列車は、昭和50年頃はキハ10、53年頃よりキハ20、54~55年頃より全てキハ35となった。昭和59年4月に廃止後、神奈中バス「西一之宮」というバス停が旧西寒川駅前に設置され、いわゆる「代替バス」となったが、運転本数は相模線より約7倍に増えたので、交通機関としては便利になった。行き先は茅ヶ崎駅であったが、現在は寒川駅行も出来た。現在の西寒川駅跡は「八角広場」という広場に生まれ変わり、バス停の停留所名も「八角広場前」に変更され、広場には鉄道の駅が存在した証がいくつか残されている。また旧寒川支線の線路跡は殆んどの場所が遊歩道に変換されているが、途中、一之宮公園内の一部は線路がそのまま保存されてており、往時を偲ぶことが出来る。


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