「西寒川駅」に拘る! ④
2017-06-05
前回に引き続きフォトを紹介したい。お馴染みの画像も登場するが、とりあえずこれだけの「乗客」が駅にいるのは、駅開業以来「初」ではなかろうか?
今回の写真は「昔訪ねた気動車ローカル線」というホームページを管理していらっしゃるミックス・マテリアルさんにもご協力いただいた。こちらのホームページは昭和を主体とした貴重な画像を多数紹介していらっしゃる。特に相模線に関しては私の幼少時代の頃の写真も数多く、非常に懐かしい。一見の価値大有り!

営業最終日の光景。この日は定期列車の他に臨時列車が5~7本位設定されていた。

珍しくヘッドマークをつけて登場。最終日ならではの光景だ。1984年3月31日が営業最終日であった。学校的な世間は春休みのためギャラリーの年齢層がかなり低い。

若干雪が解けているホームへ。コンクリでなく、砂利のホームだ。もちろん「点字ブロック」などは無い。かつて「砂利輸送」が主体であったことを考えると何とも不思議な感がある。

最初で最後の「区間列車」。西寒川行きの定期列車は全て茅ヶ崎発であったが、営業最終日は寒川~西寒川の臨時区間列車も登場。

以下の写真は全て「ミックス・マテリアルさん」にご協力いただいた。これは昭和49年頃の西寒川駅である。しかもキハ10!私は昭和50年にこの地に引っ越してきたので一年前だ。私にとってはとても懐かしい光景であり、一番最初に相模線という存在を知った初期の姿である。ひじょうに分かりづらいが、左中央奥に廃ブルドーザーが写っている。私を含め近所の子供はこのブルでよく遊んだものだ。

昭和53年頃の西寒川駅。ホームの長さが2両分くらいしかなく、3両編成の列車は寒川寄りの車両がはみ出る。

昭和53年頃の時刻表。一日4本の列車設定であるが、朝1本、午後3本と偏りを見せる。昼間利用したいときは寒川駅まで徒歩か一ノ宮小学校付近の神奈中バス停まで歩く。

西寒川駅のすぐそばを県道が横切るが、その踏切から寒川方を望む。両端は住宅が点々としているが、現在は「住宅街」である。

力強く走るキハ10のたらこ色。個人的には2色塗装が好きであったが、徐々にたらこに変身。後発のキハ20は私が当時一番好んでいた車両である。ちなみに左横の空地は現在「一ノ宮公園」に変身している。

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今回の写真は「昔訪ねた気動車ローカル線」というホームページを管理していらっしゃるミックス・マテリアルさんにもご協力いただいた。こちらのホームページは昭和を主体とした貴重な画像を多数紹介していらっしゃる。特に相模線に関しては私の幼少時代の頃の写真も数多く、非常に懐かしい。一見の価値大有り!

営業最終日の光景。この日は定期列車の他に臨時列車が5~7本位設定されていた。

珍しくヘッドマークをつけて登場。最終日ならではの光景だ。1984年3月31日が営業最終日であった。学校的な世間は春休みのためギャラリーの年齢層がかなり低い。

若干雪が解けているホームへ。コンクリでなく、砂利のホームだ。もちろん「点字ブロック」などは無い。かつて「砂利輸送」が主体であったことを考えると何とも不思議な感がある。

最初で最後の「区間列車」。西寒川行きの定期列車は全て茅ヶ崎発であったが、営業最終日は寒川~西寒川の臨時区間列車も登場。

以下の写真は全て「ミックス・マテリアルさん」にご協力いただいた。これは昭和49年頃の西寒川駅である。しかもキハ10!私は昭和50年にこの地に引っ越してきたので一年前だ。私にとってはとても懐かしい光景であり、一番最初に相模線という存在を知った初期の姿である。ひじょうに分かりづらいが、左中央奥に廃ブルドーザーが写っている。私を含め近所の子供はこのブルでよく遊んだものだ。

昭和53年頃の西寒川駅。ホームの長さが2両分くらいしかなく、3両編成の列車は寒川寄りの車両がはみ出る。

昭和53年頃の時刻表。一日4本の列車設定であるが、朝1本、午後3本と偏りを見せる。昼間利用したいときは寒川駅まで徒歩か一ノ宮小学校付近の神奈中バス停まで歩く。

西寒川駅のすぐそばを県道が横切るが、その踏切から寒川方を望む。両端は住宅が点々としているが、現在は「住宅街」である。

力強く走るキハ10のたらこ色。個人的には2色塗装が好きであったが、徐々にたらこに変身。後発のキハ20は私が当時一番好んでいた車両である。ちなみに左横の空地は現在「一ノ宮公園」に変身している。

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コメント
ダイヤモンド☆トナカイ様
No title
こんにちは。
今の相模線とは随分と雰囲気が違いますね。支線の存在は今では町の中では痕跡として残っているのでしょうか。
気動車が走っていた時代、支線だけでなく相模線自体がのんびりとした雰囲気だったのではないかと思います。
少し前に茅ヶ崎から橋本まで、初めてこの路線を乗り通しました。4両編成の相模線専用の電車は、いかにもベッドタウン化してきた郊外の風景を眺めながら、そして時折対向列車と行き違いながら、軽快に走っていきました。
厚木駅の独特な配線や、時折車窓に流れる緑の風景を見ていますと、長閑だっただろう頃がうっすらと想像がつく気がしてきます。
支線の記憶、これから先も大切にしていきたいものですね。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
今の相模線とは随分と雰囲気が違いますね。支線の存在は今では町の中では痕跡として残っているのでしょうか。
気動車が走っていた時代、支線だけでなく相模線自体がのんびりとした雰囲気だったのではないかと思います。
少し前に茅ヶ崎から橋本まで、初めてこの路線を乗り通しました。4両編成の相模線専用の電車は、いかにもベッドタウン化してきた郊外の風景を眺めながら、そして時折対向列車と行き違いながら、軽快に走っていきました。
厚木駅の独特な配線や、時折車窓に流れる緑の風景を見ていますと、長閑だっただろう頃がうっすらと想像がつく気がしてきます。
支線の記憶、これから先も大切にしていきたいものですね。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
風旅記様
コメントありがとうございます。
相模線・寒川支線ですが、現在は緑道として90%以上残っています。特に一之宮公園内はレールが完全に残っており往時を偲ばせます。
ちなみに西寒川駅は現在「八角広場」として一部レールも残っていますが、ホームなどはずべて撤去されています。当時のホームは3両編成では1両分はみ出してしまう短いホームでした。現在の状況ですが、詳しくは
http://4190koawazay.blog.fc2.com/blog-entry-80.html
にてご覧下さい。
それとは裏腹に、発展目覚しかったのは隣の寒川駅です。かつては木造の駅舎が地上にあり構内踏切を渡ってホームに行ってましたが、現在は橋上駅舎になり構内踏切も廃止されました。というより、相模線全駅に跨線橋が設置され構内踏切が廃止されました。
厚木駅に関しましては、かつて相鉄であった名残もあり構内は広くレールがつながっていましたが、現在私の確認する限りでは確か相鉄とJRはレールがつながっていないと思います。厚木基地への燃料だかなんだかの輸送で相模線経由で厚木から相鉄に乗り入れていた時代もありましたが、現在はその必要もなくなったのでしょう。
私たちが地方に行き国鉄色のDCを見かけると必ず異口同音に「あっ、相模線だ!」と言ったものです。そんな記憶を頼りに、これからも「こだわり」をアピールしていきますのでよろしくお願いします。
相模線・寒川支線ですが、現在は緑道として90%以上残っています。特に一之宮公園内はレールが完全に残っており往時を偲ばせます。
ちなみに西寒川駅は現在「八角広場」として一部レールも残っていますが、ホームなどはずべて撤去されています。当時のホームは3両編成では1両分はみ出してしまう短いホームでした。現在の状況ですが、詳しくは
http://4190koawazay.blog.fc2.com/blog-entry-80.html
にてご覧下さい。
それとは裏腹に、発展目覚しかったのは隣の寒川駅です。かつては木造の駅舎が地上にあり構内踏切を渡ってホームに行ってましたが、現在は橋上駅舎になり構内踏切も廃止されました。というより、相模線全駅に跨線橋が設置され構内踏切が廃止されました。
厚木駅に関しましては、かつて相鉄であった名残もあり構内は広くレールがつながっていましたが、現在私の確認する限りでは確か相鉄とJRはレールがつながっていないと思います。厚木基地への燃料だかなんだかの輸送で相模線経由で厚木から相鉄に乗り入れていた時代もありましたが、現在はその必要もなくなったのでしょう。
私たちが地方に行き国鉄色のDCを見かけると必ず異口同音に「あっ、相模線だ!」と言ったものです。そんな記憶を頼りに、これからも「こだわり」をアピールしていきますのでよろしくお願いします。
Re: にわか者様
コメントありがとうございます。
西寒川駅の最終日はご覧の状況ですが、当日はTBSか文化放送か忘れましたがラジオの中継車もきていました。ラジオで廃止の状況がどれだけ伝わるかはわかりませんが、とにかく開業以来最大のイベントだった事でしょう。
それと、私自身も例えば白糠線の北進駅の状況などははっきり言って詳しく覚えていませんし、日中線も熱塩駅のことなどはハッキリと記憶にありません。ただ、私の場合の西寒川は「生活」であったのでこのブログを拝見してくださる皆さんとは感覚がちがう事でしょう。
ところで「あなたの~」は確か昼間の時間帯でしたよね。そんな時間から放送していいのかどうかは疑問ですが、子供ながらに興味深々で毎回観ていましたよ。
西寒川駅の最終日はご覧の状況ですが、当日はTBSか文化放送か忘れましたがラジオの中継車もきていました。ラジオで廃止の状況がどれだけ伝わるかはわかりませんが、とにかく開業以来最大のイベントだった事でしょう。
それと、私自身も例えば白糠線の北進駅の状況などははっきり言って詳しく覚えていませんし、日中線も熱塩駅のことなどはハッキリと記憶にありません。ただ、私の場合の西寒川は「生活」であったのでこのブログを拝見してくださる皆さんとは感覚がちがう事でしょう。
ところで「あなたの~」は確か昼間の時間帯でしたよね。そんな時間から放送していいのかどうかは疑問ですが、子供ながらに興味深々で毎回観ていましたよ。
ダイヤモンド☆トナカイ様
既に私のコメントが記載されている…
まさかこれは、並行した世界が実在し、そこにいるもう一人の私がコメントしたとでも言うのだろうか…
まさかこれは、並行した世界が実在し、そこにいるもう一人の私がコメントしたとでも言うのだろうか…
にわか者様
コメントありがとうございます。
私の出身は神奈川で、ご存知の通り西寒川駅前にも在住期間があった関係から、相模線にかなりの馴染みがあります。その関係から少しでも多くの方に西寒川を知っていただきたいと再アップしてみました。
古くから私のブログをご贔屓にされている方にとっては「再放送」となってしまうかも知れませんが、やはり国鉄時代の相模線を後世に伝えたいという思いもあり、多くの方に西寒川の存在を知っていただくことこそ私の使命かも知れないと過去の記事を引っ張りだしました。
というか、特定地方交通線とかに名を連ねたわけでもなく、言わば地味にその使命を終えた寒川支線は、ある意味「らしさ」があったかも知れません。しかも首都圏にあったから尚更愛おしい存在であり、私が鉄道を好きになるきっかけを与えてくれた存在でもあるので、ある意味「師匠」のような存在かもしれません。
私の出身は神奈川で、ご存知の通り西寒川駅前にも在住期間があった関係から、相模線にかなりの馴染みがあります。その関係から少しでも多くの方に西寒川を知っていただきたいと再アップしてみました。
古くから私のブログをご贔屓にされている方にとっては「再放送」となってしまうかも知れませんが、やはり国鉄時代の相模線を後世に伝えたいという思いもあり、多くの方に西寒川の存在を知っていただくことこそ私の使命かも知れないと過去の記事を引っ張りだしました。
というか、特定地方交通線とかに名を連ねたわけでもなく、言わば地味にその使命を終えた寒川支線は、ある意味「らしさ」があったかも知れません。しかも首都圏にあったから尚更愛おしい存在であり、私が鉄道を好きになるきっかけを与えてくれた存在でもあるので、ある意味「師匠」のような存在かもしれません。
こんにちは。
貴重なお写真と共に記事の内容を拝見させて頂きました。
ありがとうございます。
先日、相模線西寒川支線の廃線跡巡りをしてきましたが、遊歩道として残されていたので、忠実に辿ることが出来ました。
宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」の中にも紹介されていたので、何となく雰囲気をイメージしていていましたが、実際に訪れてみると宅地化が進んだこともあり、田畑や林の中を行くイメージは浮かばなかった。
西寒川駅跡は終着駅の面影が残っていた気がしますが、小説にあった日東タイヤというのは無くなったのでしょうか。
高圧線の鉄塔が往時と変わらないのが印象的でした。
貴重なお写真と共に記事の内容を拝見させて頂きました。
ありがとうございます。
先日、相模線西寒川支線の廃線跡巡りをしてきましたが、遊歩道として残されていたので、忠実に辿ることが出来ました。
宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」の中にも紹介されていたので、何となく雰囲気をイメージしていていましたが、実際に訪れてみると宅地化が進んだこともあり、田畑や林の中を行くイメージは浮かばなかった。
西寒川駅跡は終着駅の面影が残っていた気がしますが、小説にあった日東タイヤというのは無くなったのでしょうか。
高圧線の鉄塔が往時と変わらないのが印象的でした。
HIRO☆1965様
コメントありがとうございます。
まずは「日東タイヤ」良くご存知ですね!さすが、宮脇氏の著書をくまなく読んでいらっしゃいますね。
日東タイヤは地元では大変有名で、例えば茅ヶ崎などからタクシーに乗って「西寒川駅まで」というより「日東タイヤ」と伝えた方が一発でわかってしまう程地元では通り名となっておりました。
ところで日東タイヤですが「日東化工」と社名を変更して確か若干規模を縮小して現在も操業しています。
「規模の縮小」という事でありますが、これは日東タイヤ時代に工場で火災があり、以降会社の再編か何かにより一部の土地を売却したり何かあったりして現在の姿になっていると思われます。
当時の火災は我が家までゴムの燃える匂いや火の粉が飛んできましたから相当な火災だったと思います。確か夜中にサイレンが鳴り響き放しで大騒ぎしていた記憶ですが、当時小学生の低学年だった記憶なので詳細な部分の記憶が少ないです。
私もちょくちょく西寒川方面へいく時がありますが、宅地化が猛烈に進み沿線の様子が全く変わってしまって昔の面影が少ないです。もちろんその沿線の住宅には当時のクラスメートがたくさん住んでいる、又は実家になっているはずですが、それ自体もかなりリニューアルが進んでいますね。
ご存知と思いますが、西寒川から先、四ノ宮という場所まで砂利輸送の貨物線がありました。四ノ宮駅は現在の銀河大橋付近になりますが、四ノ宮駅の面影は全くありません。私自身も四ノ宮があった時代には生まれていなかったので四ノ宮自体が伝説になりますが、私の住んでいた当時は西寒川駅前の道路から四ノ宮方面へ右側に不自然な空間があり、それが四ノ宮へ向かう線路の跡だったと近年になって理解しました。
すみません、西寒川の事となると語り尽くせず長くなってしまいますが、これからもヨロシクお願いいたします。
まずは「日東タイヤ」良くご存知ですね!さすが、宮脇氏の著書をくまなく読んでいらっしゃいますね。
日東タイヤは地元では大変有名で、例えば茅ヶ崎などからタクシーに乗って「西寒川駅まで」というより「日東タイヤ」と伝えた方が一発でわかってしまう程地元では通り名となっておりました。
ところで日東タイヤですが「日東化工」と社名を変更して確か若干規模を縮小して現在も操業しています。
「規模の縮小」という事でありますが、これは日東タイヤ時代に工場で火災があり、以降会社の再編か何かにより一部の土地を売却したり何かあったりして現在の姿になっていると思われます。
当時の火災は我が家までゴムの燃える匂いや火の粉が飛んできましたから相当な火災だったと思います。確か夜中にサイレンが鳴り響き放しで大騒ぎしていた記憶ですが、当時小学生の低学年だった記憶なので詳細な部分の記憶が少ないです。
私もちょくちょく西寒川方面へいく時がありますが、宅地化が猛烈に進み沿線の様子が全く変わってしまって昔の面影が少ないです。もちろんその沿線の住宅には当時のクラスメートがたくさん住んでいる、又は実家になっているはずですが、それ自体もかなりリニューアルが進んでいますね。
ご存知と思いますが、西寒川から先、四ノ宮という場所まで砂利輸送の貨物線がありました。四ノ宮駅は現在の銀河大橋付近になりますが、四ノ宮駅の面影は全くありません。私自身も四ノ宮があった時代には生まれていなかったので四ノ宮自体が伝説になりますが、私の住んでいた当時は西寒川駅前の道路から四ノ宮方面へ右側に不自然な空間があり、それが四ノ宮へ向かう線路の跡だったと近年になって理解しました。
すみません、西寒川の事となると語り尽くせず長くなってしまいますが、これからもヨロシクお願いいたします。
こんばんは。
日東タイヤに関して詳細な内容を教えて頂きありがとうございました。
さすがに詳しいですね。
火災があったのは知らなかったですが、地元では大変だったかと思います。
日東化工は有名な会社ですので、現在も操業中というのは納得しました。
西寒川駅跡の少し先まで行ってみましたが、フェンス越しに相模川が見えたので、砂利の採取用の貨物路線があったのは想像出来ました。
日東タイヤに関して詳細な内容を教えて頂きありがとうございました。
さすがに詳しいですね。
火災があったのは知らなかったですが、地元では大変だったかと思います。
日東化工は有名な会社ですので、現在も操業中というのは納得しました。
西寒川駅跡の少し先まで行ってみましたが、フェンス越しに相模川が見えたので、砂利の採取用の貨物路線があったのは想像出来ました。
HIRO☆1965様
コメントありがとうございます。
「西寒川駅跡の少し先」まで行かれたのはとても素晴らしい事ですね。
駅前の道路が南に向かっていますが、その右脇が四之宮まで伸びる貨物線の跡で、現在は住宅などが建ち並んでますのでほぼ痕跡の確認はできません。
しかしながらその住宅の空間に線路があったんだと思うとかなり納得できる材料だと思います。
西寒川駅付近にあるのは、実は目久尻川ですが、旭ファイバーグラス付近で相模川と合流します。「フェンス越しに」という事は既に相模川の土手に到達してますのでかなり歩かれたようですね。
ちなみに日東タイヤの隣にある小学校と一之宮公園付近にある中学校は私の母校ですが、中学校では「鉄道研究クラブ」という部活に所属していました。今思えばそのようなクラブ活動は他の学校には殆ど存在していないようで、ある意味私はラッキーだったのかも知れません。
といっても顧問の先生はあまり部活に顔を出さず理科室や放送室など、もはや鉄道とはあまり縁のない場所での活動でしたのでやや肩身の狭い思いをしました。
西寒川~四ノ宮の変遷についても私のブログでジャーナルをアップしてますが、地理院地図で過去の姿と現在を照らし合わせると非常につかみやすくなります。
ぜひ参考になさってください。
http://4190koawazay.blog.fc2.com/blog-entry-897.html
「西寒川駅跡の少し先」まで行かれたのはとても素晴らしい事ですね。
駅前の道路が南に向かっていますが、その右脇が四之宮まで伸びる貨物線の跡で、現在は住宅などが建ち並んでますのでほぼ痕跡の確認はできません。
しかしながらその住宅の空間に線路があったんだと思うとかなり納得できる材料だと思います。
西寒川駅付近にあるのは、実は目久尻川ですが、旭ファイバーグラス付近で相模川と合流します。「フェンス越しに」という事は既に相模川の土手に到達してますのでかなり歩かれたようですね。
ちなみに日東タイヤの隣にある小学校と一之宮公園付近にある中学校は私の母校ですが、中学校では「鉄道研究クラブ」という部活に所属していました。今思えばそのようなクラブ活動は他の学校には殆ど存在していないようで、ある意味私はラッキーだったのかも知れません。
といっても顧問の先生はあまり部活に顔を出さず理科室や放送室など、もはや鉄道とはあまり縁のない場所での活動でしたのでやや肩身の狭い思いをしました。
西寒川~四ノ宮の変遷についても私のブログでジャーナルをアップしてますが、地理院地図で過去の姿と現在を照らし合わせると非常につかみやすくなります。
ぜひ参考になさってください。
http://4190koawazay.blog.fc2.com/blog-entry-897.html
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それにしても…
駅の様子、私はあまり覚えてないですね…(>_<)
今みたいに、デジカメで手当たり次第シャッターをきることができたらなぁ…と、残念に思います(ToT)
それと…
私も心霊系番組大好きでして
呪いの何とかとか、今でも放送されると見てますよ
我々の世代ですと、あなたの知らない何とかでしょうか