いつか、その日が来る日まで・・・③ 鵜苫
2020-03-10

全く関係ない話であるが、私は小学生の時将棋クラブの副部長であった。自分で言うのも何であるが、そこそこ強かったと思う。
ただ、生まれてまもなく父の膝の上に乗せられ麻雀を魅せられていたのを覚えている。つまり父の仲間たちが我が家で麻雀をやっていて、それを見ていて自然に私は麻雀を覚えてしまった。いや、正式には中学2年の時、ようやく周囲の同級生たちが麻雀をやる仲間が出てきたため、しっかりと書籍を読みちゃんと点数計算まで覚えたのが始まりだったと思う。もちろん小学生時代も麻雀自体のやり方とかはわかっていたが、なにせ周りにやれる物がいない。それが中学になってようやく現れた麻雀仲間に私は授業が終わるとメンバーの家に集まり麻雀をやる日々が続いた。






現在の鵜苫の駅舎。傍から見たら全章の西様似とほぼ変わらない風景かも知れないが、私から見たら全く個性が違う的に映る。
高校時代はクラブ活動入部が義務であったが、鉄道に関する部活がなかった。仕方なく私は「華道部」に入部したが、一度も参加することなく高校を卒業した。いや、正式には入部の際に新一年生を集めての集会があったのでそれに参加したが、それっきり参戦は無い。もし麻雀研究クラブみたいのがあったら間違いなく入部していただろう。鉄道に関しては高校1年の夏以降休業したので、もし高校入学の際に鉄道に関する部活があったら入部していたであろうが、麻雀クラブに移籍していたかも知れない。
くらい麻雀をよくやった。
そして車の免許取得のため福島は飯坂温泉に合宿する事になるが、その際もこの「麻雀」が滞在費等に貢献するという「逸話」があり、私の若かりし頃は麻雀とは切っても切れない縁であった。




ご覧の通り西様似同様、かつて列車交換ができた駅であった名残がわかる。そして、もし広尾までレールがつながっていて帯広まで抜けられるルートが完成していたら、その交換設備も最大に活躍していた事であろう。
そんな時代もあったが、約23年振りくらいにレールファンに復帰して、なんというか時代を取り戻すというか追いつくのがある意味大変であった。が、それでもブルトレ全盛期の国鉄時代を知る者として今、自身のブログで国鉄時代の記事を書いているのがある意味自己満足的に嬉しい部分もある。しかしながら平成~令和の時代に果たして私の記事が受け入れられてもらえるか?という思いもある。だが、こうして若かりし頃の思い出として次の世代に伝えられたらいいかなという思いもあるので、是非若い世代に私のブログをご覧頂きたい思いである。もちろん「昭和」「国鉄」を知る世代にも・・・

こちらの方が「らしい」か。交換設備があった事がものすごく伝わってくる。
さて本題に入ろう。西様似に続き貨車駅専科である鵜苫であるが、ここ鵜苫も西様似に続きかつて島式ホームであった名残が見られる。たが、当然ながら利用者が減れば運転列車も減る。そして列車交換の必要性が減る事から交換設備が外される・・・どのローカル線でも歩んできた道を、ここ日高本線も同じように歩んできた。そして更に今は災害により列車はやってこない。そしてこのまま永久に列車はやってこない・・・
国鉄時代には考えられなかった現象が、平成・令和の時代に日常的に起こっている。国鉄時代、日高本線ってこのようなイメージだったっけ・・・と思ってしまう。
日高「本線」であるからもっと活躍してもいいんじゃないか、と思ってしまう。が、例え広尾まで繋がっていたとしても、そして広尾線が今もなお健在であったとしても遅かれ早かれ日高本線の進退は決まっていたかも知れない。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
トラックバック
この記事へのトラックバックURL
http://4190koawazay.blog.fc2.com/tb.php/878-b3582b3f