相模線 ヘビー・ローテーション☆アゲイン① プロローグ
2020-05-20
かつて私は再三に渡り、相模線についての見解を偉そうに豪語してきた。地元民ということ事もあって「俺は誰よりも相模線について知ってるぞ!」的な姿勢を貫いて来た感じがあったのだが・・・それは大きな勘違いであった!
私にとっての相模線は恋人のようなものでもあり、そして廃止された西寒川は母のような存在でもある。
相模線の歴史は実に奥深く、そして複雑な変遷をもつのだが、その紐を解けば解く程に奥深くに引きずり込まれて行くような気がする。

毎度お馴染みの西寒川駅の晩年の姿。画像はキハ30であるが、かつてはキハ20、キハ10などが活躍していた。更に2色塗装から、いわゆる「たらこ」の一色塗装へと変化していったのもこの時代である。
相模線の細かい歴史については「こちら」を参照していただくとして、大雑把に要約すると、とにかく相模線と砂利輸送は切っても切れない縁である事、そして関東大震災の復興時にその砂利輸送で会社が大きく潤い現在の形に近い形で路線を伸ばした事、そして何より近年では貨物輸送で活躍した西寒川(寒川支線)が廃止され茅ヶ崎~橋本間が電化された事、更に相模線に海老名駅が誕生したという事が大きな出来ごとであろう。更には相模線は元々相模鉄道であったが、国に買収され経営母体が代わった事、つまり国鉄として運営されていた事が最も重要な出来事であったろう。

大正時代より今も使用されている倉見駅の駅舎。関東大震災の教訓を生かし重厚に造られている事で現在でも使用できるのであろう、今も残る貴重な建築物となっている。
近年にインターネットが急速に発達して誰でも気軽に細分化された資料をリアルタイムで確認することができるようになった。
相模線の砂利輸送の歴史については私も当然ながら幼い頃より知っていたが、何せ写真など昔の映像画像を確認する術がなく、想像とか仮説、更には図書館等の資料や当時の生き証人的な伝説等に頼る他無かった。たが現在はインターネットで昭和30年代頃の航空写真を見れるようになった。もちろん、それ以前の航空写真も見てみたいが、恐らく技術的に記録が無いであろう。たが、昭和30年代の航空写真でも充分に砂利輸送の名残や廃線跡、そして相模線から枝分かれする数々の貨物引込み線を確認する事ができた。更に驚くべきは、お年玉としてなんと建設中だった東海道新幹線のルートをハッキリと確認できた事!これが一番の収穫でもあった。

「地理院地図」よりの1961~1969年に撮影された航空写真である。東海道新幹線開業が1964年、更に私が生まれたのが1969年であるからかなり貴重な画像である。ご覧のように新幹線が斜めに突っ切る工事中の姿がハッキリとわかる、という事は1961~1962年頃の撮影である事が判断できる。
で、今回はその奥深き歴史については私が新たに得た情報を皆様に公開し、そして私よりも知識豊富な先輩方達に少しでも近づき、そして仲間入りしたい気持ちである。

この画像は寒川文書館から拝借させていただいた昭和18年の倉見駅風景である。写真中央には貨物側線があり列車が停車しているが、更に左側には段差をつけた貨物側線がありそこに列車が停車してる。つまりこの段差によりナベトロ等で相模川より採取した砂利を貨物列車に移す際の作業が軽減され効率がよくなるという発想であろう。現在この段差部分の貨物側線は日本鉱業の従業員用駐車場になっているが、ものすごく貴重な写真である。
※今回の「相模線 ヘビーローテーション✩アゲイン」シリーズは新型コロナウィルス感染拡大防止による自粛要請により取材を自粛したため「地理院地図」と「グーグルマップ」の活用、更に過去に撮影した写真を含めて記事を作成いたしました。

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私にとっての相模線は恋人のようなものでもあり、そして廃止された西寒川は母のような存在でもある。
相模線の歴史は実に奥深く、そして複雑な変遷をもつのだが、その紐を解けば解く程に奥深くに引きずり込まれて行くような気がする。

毎度お馴染みの西寒川駅の晩年の姿。画像はキハ30であるが、かつてはキハ20、キハ10などが活躍していた。更に2色塗装から、いわゆる「たらこ」の一色塗装へと変化していったのもこの時代である。
相模線の細かい歴史については「こちら」を参照していただくとして、大雑把に要約すると、とにかく相模線と砂利輸送は切っても切れない縁である事、そして関東大震災の復興時にその砂利輸送で会社が大きく潤い現在の形に近い形で路線を伸ばした事、そして何より近年では貨物輸送で活躍した西寒川(寒川支線)が廃止され茅ヶ崎~橋本間が電化された事、更に相模線に海老名駅が誕生したという事が大きな出来ごとであろう。更には相模線は元々相模鉄道であったが、国に買収され経営母体が代わった事、つまり国鉄として運営されていた事が最も重要な出来事であったろう。

大正時代より今も使用されている倉見駅の駅舎。関東大震災の教訓を生かし重厚に造られている事で現在でも使用できるのであろう、今も残る貴重な建築物となっている。
近年にインターネットが急速に発達して誰でも気軽に細分化された資料をリアルタイムで確認することができるようになった。
相模線の砂利輸送の歴史については私も当然ながら幼い頃より知っていたが、何せ写真など昔の映像画像を確認する術がなく、想像とか仮説、更には図書館等の資料や当時の生き証人的な伝説等に頼る他無かった。たが現在はインターネットで昭和30年代頃の航空写真を見れるようになった。もちろん、それ以前の航空写真も見てみたいが、恐らく技術的に記録が無いであろう。たが、昭和30年代の航空写真でも充分に砂利輸送の名残や廃線跡、そして相模線から枝分かれする数々の貨物引込み線を確認する事ができた。更に驚くべきは、お年玉としてなんと建設中だった東海道新幹線のルートをハッキリと確認できた事!これが一番の収穫でもあった。

「地理院地図」よりの1961~1969年に撮影された航空写真である。東海道新幹線開業が1964年、更に私が生まれたのが1969年であるからかなり貴重な画像である。ご覧のように新幹線が斜めに突っ切る工事中の姿がハッキリとわかる、という事は1961~1962年頃の撮影である事が判断できる。
で、今回はその奥深き歴史については私が新たに得た情報を皆様に公開し、そして私よりも知識豊富な先輩方達に少しでも近づき、そして仲間入りしたい気持ちである。

この画像は寒川文書館から拝借させていただいた昭和18年の倉見駅風景である。写真中央には貨物側線があり列車が停車しているが、更に左側には段差をつけた貨物側線がありそこに列車が停車してる。つまりこの段差によりナベトロ等で相模川より採取した砂利を貨物列車に移す際の作業が軽減され効率がよくなるという発想であろう。現在この段差部分の貨物側線は日本鉱業の従業員用駐車場になっているが、ものすごく貴重な写真である。
※今回の「相模線 ヘビーローテーション✩アゲイン」シリーズは新型コロナウィルス感染拡大防止による自粛要請により取材を自粛したため「地理院地図」と「グーグルマップ」の活用、更に過去に撮影した写真を含めて記事を作成いたしました。

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