相模線 ヘビー・ローテーション✩アゲイン⑤ 四之宮~西寒川
2020-06-10

1961年頃の寒川支線の様子である。寒川支線は寒川から分岐するが、寒川駅構内の線路が一旦収束して単線になり、分岐点Aで再び分岐されしばらく単線並列のような形で寒川神社参道付近まで併走する。そして分岐点Bで本線と別れ西寒川に到達する。
相模線の西寒川といえば、かつて私が在住していた場所であるが、実はそこから先、砂利輸送のための貨物線及び海軍工場への引き込み線が伸びていた。私が住んでいた頃はその事は知らなかったし意識もしなかった。であるが、四之宮に関しては何となくであるが知っていて、西寒川から先に向かい四之宮方面へと向かう道路の右脇に空間が有り、そこが四之宮へと続いていた鉄道路線跡だなとは何となく子供心的にわかっていた。だが、そこから分岐して工場へ伸びる引き込み線があるとは!そういえば、西寒川方面に斜めに向いている工場の門があった記憶で、恐らくその斜めに向いている原因こそ引き込み線の名残であろう。現在もその門は会社が変わった今もあるのだが、やや門の造りと角度が違うような・・・


今回のシリーズでおなじみとなった「地理院地図」による駅紹介。今回は新型コロナウィルスによる自粛要請を受け取材を自粛している関係から今回のような形でのブログ記事となっているのだが、私的にはこういった地図の利用もあるのかとひとつ学習した感じである。上下で時代の変化を示しているが、上が1961年頃、下が現在の西寒川付近から四之宮付近の全体像である。
であるが、地理院地図で1960年代の航空写真を見ると一目瞭然、その引き込み線がハッキリと確認できる。相模線・寒川支線はかつては支線でなく本線であった証であるとともに砂利輸送と軍事輸送においてかなり重要なポジションであったのが地図だけ見てもかなり伝わってくる。先述通り、私が西寒川駅前に在住していた頃には既に四之宮への鉄路も工場への引き込み線も無かったが、こうして地図を見ていると、当時の景色が浮かんでくるようだ。


そして西寒川から海軍工場への引き込み線の比較。上は同じく1961年頃で下が現在の状況であるが、上の画像では大きく弧を描くカーブがハッキリと確認できる一方、下の画像の現在でもその名残であるカーブの部分が確認できるものの、一部が圏央道の下敷きになってしまっているのが少々残念である。
さて四之宮であるが、駅名の由来は以前にも紹介した記憶があるが改めて報告すると、対岸の平塚市に四之宮という地区があるのだが、相模川を超え対岸の寒川町までその地区の区域は被っていた場所に四之宮駅があったためであると伝えられている。ちなみに四之宮とは、相模の国、つまり神奈川県には寒川神社があり、その場所は「一之宮」である(実際の寒川神社の所在は宮山であるが)。そして東海道線には「二宮」があり、更に平塚には四之宮が・・・つまり神様が守っている場所的な意味なのであろう。確かに私が住んでいた西寒川駅前の住所は寒川町一之宮であるのだが、その先にすぐ四之宮があるとは何とも感慨深い。
そんな旧・四之宮付近には小学生時代などによく行ったものだ。そこにはスポーツ公園があり、よく野球に行ったりしたものだ。もちろん先に紹介した旧・川寒川跡にあるスポーツ公園にも野球場があり、そこにも野球等で訪れていた。つまり私と相模線は切っても切れない縁という事である!


四之宮付近を拡大し1961年頃と現在の比較である。相模川砂利積出Aで採取された砂利は相模川砂利積出Bまで運ばれるが、実際の四之宮駅はここB地点であると思われる。そして四之宮駅と表記している地点まで構内側線が伸びていたと思われ、意外に四之宮駅構内は広いイメージである。そして相模川砂利積出A付近とB付近では恐らく段差があったため、B付近では道路がΩ状になっているのがわかるのだが、相模川砂利積出Aの現在は完全に相模川に水没してしまった。更に現在の旧・四之宮駅付近はスポーツ公園の野球グラウンドになってしまって全く面影がない。ちなみに1961年では砂利採取は行われておらず、西寒川~四之宮間は既に廃止になっているとの公式記録がある。廃止されたのが1944年となっているので廃止から15年以上経っているのだがこれほどにもハッキリと痕跡が残っているのはスゴイ!というか、実際は砂利採取していたんじゃねぇ?って思えてしまうほどハッキリと確認できる。
四之宮の航空写真に注目していただきたいのだが、西寒川駅前の道路に寄り添うように四之宮への線路が続いているが、四之宮付近で大きくカーブし相模川に限りなく近づいて四之宮駅に着くのがハッキリとわかる。そして四之宮の手前で相模川に続く砂利道が複数確認でき、ここで砂利採取をしていたのが容易に判断できる。現在このカーブの部分は相模川の堤防の一部に埋まってしまい面影を確認する事はできない。更に先述通り、四之宮駅も野球場や湘南銀河大橋などの橋脚などに転用されてしまい、そこに駅があった事すら感じる事ができない。幼少時代に何度も自転車で訪れていたが、その時でさえ既に駅の面影を感じる事ができなかった。砂利採取、そして貨物輸送はこの時既に完全に過去へ葬られていたのだ。
上下で1961年頃と現在の可動式画像で掲載してみた。特に1961年頃の四之宮付近がわかる大変貴重な資料としてこれからも私は研究していく予定である。家から近い事もありいずれ現地でライブの姿を確認したい気持ちである。ただ、旧・四之宮付近では自家用車を駐車するスペースが無いため訪問にはやや苦労するかもしれないが・・・
晩年の寒川支線は既に私が過去にお伝えした通り、営業最終日にはTBSラジオの局員も取材に駆けつけそれなりに話題になった。だが、いわゆる「83線区」などにノミネートされていたわけでも無く、ある意味地味な引き際であった。だが最終日には全国から多くのレールファンも駆けつけ開業以来初であろう壮大な賑わいとなった。私がレールファンになるきっかけを作ってくれた西寒川駅であるが、その歴史は知れば知るほど奥が深い。
現在の西寒川付近をグーグルマップにて掲載してみた。画像を動かすと、画像右側の八角広場(旧・西寒川駅)より道路の右側に空間が見えてくるが、まさにそこが四之宮へ続く線路があった場所である。高速道路と交差する付近にはかつてトラック等が停まっていて会社のような場所であった記憶であるが、現在は更地になりハッキリと鉄道の歴史を感じる空間となった。
今回の記事も「地理院地図」と「グーグルマップ」から引用させていただきました。

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