旅を楽しくする実践講座 2021
2021-01-01
新年あけましておめでとうございます!
今年も鉄道全線完全制覇の旅をよろしくお願いいたします。

今回の写真掲載は1978年、二見書房より発行の「ブルートレイン」より右側のカード内容を紹介していたが、期間限定という事でご了承頂き、お蔵入りになっていた渋谷駅の様子に差し替えさせていただき紹介していきたい。
2021年スタートした!国鉄からJRに移管してから既に30年以上経過したが、とにかく合理化され民営化ならではの努力がなされており、国鉄時代からは想像もつかないほど進化している。ワンマン運転が当たり前の時代である現代の鉄道事情も、国鉄時代では山陰本線などでワンマン運転が導入された事が非常に新鮮かつショッキングな出来事であった。どんな小さなローカル線でも車掌が乗務していたし、そして駅員のいる改札では必ず職員が座り硬券の切符にパンチ(鋏)を入れていた、そんな時代であった。
そして切符の販売などをコンピューターで処理する「マルス」の機能が本格的に進化しはじめたのが私がレールファンとして全盛期であった小学校高学年~中学校時代である1970年代~1980年代からであった記憶だ。

今回は私自身も撮影していた事さえ記憶から遠ざかっていた東横線の旧・渋谷駅の様子を紹介しよう。もちろんこの風景は記憶に新しいが、時間の経過とともに後世に引き継がれ貴重な風景となる事であろう。
しかしながら、まだまだマルスによる周遊券等の発券は少なかった記憶で、駅のみどりの窓口などでは周遊券などは発券別に常備券の在庫を持たねばならず、切符売り場の窓口職員や、もっと言えば改札に立つ職員等は、一年に数枚しか売れない周遊券等の細かいルールなどを全て覚えるというのはかなり大変な作業であったろう。もちろん、全て頭に入っているというのがプロとして当然であるはずだし、そしてそれを前提として我々利用者は快適に旅が出来る事が基本的な考え方であろう。

ホームは頭端式で渋谷を通過できる列車は皆無である。ウィキによると昭和2年の開業という事なので物凄い年月が流れていいた事になる。もちろんその間増改築が著しく行われ現在の姿になった事は周知の通りである。
私のブログにちょくちょく顔を出す「種村直樹の汽車旅相談室」は、そんな旅先でのトラブル等を「規則」を通じて解説・解決していく趣旨であった。現代における若い世代のレールファン達はこの「汽車旅~」に関してはもう伝説に部類に入っていると思われるし、種村直樹と聞いても「昔の人」的イメージか、むしろ知らない方のほうが多いであろう。
改めて「種村直樹の汽車旅相談室」について解説すると、RJ社が発行(当時)する「旅と鉄道」という鉄道誌に始まる。最初は「旅を楽しくする実践講座」というタイトルであったが「汽車旅相談室」に名前を変えて連載がスタートした。インターネット等が発達していない時代に鉄道旅のトラブル等の解決策として大きな反響を呼んだが、相談室への接触方法としては種村直樹氏の自宅にハガキや手紙を送付し、それを種村氏が返答・返信し、種村氏が厳選した相談のいくつかが「旅と鉄道」に掲載される、というイメージである。「えっ、種村氏に直接ハガキって、どうして住所が分かるの?」というクエスチョンが出てくると思うが、昔は雑誌そのものに筆者の住所等が普通に掲載されていた。昨年他界した志村けん氏も、雑誌等の付録に掲載されているタレントの住所等を見ていかりや長介の自宅に「弟子入り志願」に行ったとの本人談であった。
「汽車旅相談室」はその後単行本としていくつか発行された事ひとつとってもいかにこの相談室の反響が大きかったか頷けるであろう。

現在ではなんと西武鉄道との乗り入れが実現している東急東横線。かつて「伊豆戦争」を知る者にとっては現在のこのシーンが信じられない出来事であろう。
以前に私が取り上げた相談室の内容のひとつに「一筆書き乗車」というタイトルの記事がある。それは「一筆書き乗車中に例えば相模線の寒川支線(当時、現在は廃止)に乗車したくなった場合、別途寒川~西寒川の往復乗車券を買い往復するのは有効か?」みたいな内容である。この件に関して大反響を呼んだ事は私のブログでも解説しており、私のブログにも多くの意見が寄せられた。私自身も「違法」という意見を述べているが、久々に当時の「旅と鉄道」を読んでみたらとんでもない事が書いてあった。それは、一筆書きとはかけ離れた内容で拡大解釈し、「そんなにうまい話があるんですね。早速試してみます。」的な内容の文面が種村氏の元にたくさん寄れられたというのだ。例えば茅ヶ崎から茂原辺りまで行く場合、茅ヶ崎から120円(当時)を買い大網~茂原の別途往復切符を用意して「一筆書き中だ」と言えば安く済みますね、という者も出てくる的な内容であった。「そんなにうまい話」はともかく、それをわざわざ「試してみる」と種村氏にハガキを送るという事自体私には理解できないし信じられないが、実際に実行した者も少なくなかったであろう。そんな事もあって「違法ではないが感心しません」から回数をまたいで「規則の解釈上も疑問で、やめよう」にタイトルを変更し注意を呼びかけた経緯のある疑惑付きの内容であった。

かつての東横線では「特急」の設定が無かった。現在の特急の停車駅は実によく考えられた結果だと思う。私にしてみたら綱島や日吉をも通過するシーンは実に新鮮だ。
そんな汽車旅相談を日々読み続けていた中学生であったが、23年というブランクを乗り越えレールファンに復帰したのが2007年頃であった。そして2014年11月、私は「はまなす」に最初で最後の試乗をするために北海道へ旅立ったのであった。
その時の出来事。私は音威子府で「常盤軒」のそばを堪能した後、帰郷のため札幌から「はまなす」に乗る計画であった。札幌では待ち時間をあえて作って「はまなす」での飲料・食料や「日帰り温泉」の準備も進めていた。銭湯は苗穂と桑園の駅前にある事をインターネットで確認していたので桑園でスーパー銭湯を利用する事に決めた。

そしてなんといっても桜木町が廃止され元町・中華街までの延伸が実現した事である。実は横浜市営地下鉄も関内から分岐して中華街までの延伸が予定されていた。現在でもその名残が地下鉄の関内駅ホームで見られるが、結局東急に先手を打たれ、というより市営地下鉄の計画が頓挫してしまい断念・・・
いや、しかしすごい時代だ。銭湯ひとつ探すにも部屋の中でパソコンを眺めていればすぐに見つかる。私がかつてレールファン全盛で旅をしていた国鉄時代では、わざわざ書店で「駅前の宿」的な本を端から読みあさったり時刻表の巻末くらいにある広告や民宿案内みたいなページで日帰り温泉できる宿などを探すしかなかった時代だ。
私の場合、雑誌などで探す事もあったが、例えば旅先の現地で後に折り返し戻ってくる比較的待ち時間のある駅周辺を窓から眺め煙突を探す。もちろん工場とかの煙突ではなく「銭湯」の煙突だ。見つかると「よし、ここで下車だ!」とあらかじめ決めておいて折り返し戻ってきたら銭湯に向かう・・・みたいな、なんともアナログ的な探し方であった。この方法では実際に青森と南小松島で成功しているが、早い話、駅員さんなどにリサーチするのが一番いいかも知れない。なのになぜか私は煙突にこだわった。
そういえば一度だけ駅員にリサーチして入った銭湯が男鹿であった。秋田に折り返す列車を一本送らせても秋田から乗る列車は同じのため銭湯に向かう決意をしたのであった。

かつてはここに5000系も姿を現していた時代があった。私が小学生時代の頃まで見かけた記憶があるが、やがて8000系も東急から姿を消す事となったのは寂しい限りである。
そんな旅慣れた私が自信満々で桑園で下車するため切符を窓口で見せた。別途区間の乗越精算のため自動改札から出られないためだ。私は音威子府~東京都区内の切符を見せて札幌~桑園の乗越運賃を係員に渡そうとした。ところが「これでは足りませんね。白石~桑園までの運賃をお願いします」と更に追加の運賃を請求された。「いやいや、サロベツで札幌まできて、札幌からはまなすに乗るんですけど・・・」と説明したが・・・ここで気がついた。そう、函館本線と千歳線の接点は白石であるから、特急の止まらない白石からは札幌まで乗り越しても「途中下車しなければ」料金不要である。つまり私は白石で「途中下車した」事になるのだ。こんな初歩的な事を、しかもベテランの域を超えた(?)レールファンが見落とすとは!駅員にあわせる顔もなかった、って、駅員さんが私の事をレールファンとは知らないであろうが・・・とにかく、こんな基本的な事を見落とす大失態である!!!その後のスーパー銭湯内で私は、湯船の中で恥ずかしくていられなかったのであった・・・
あれだけ「汽車旅相談室」などと豪語していた私にとって、これほどの大失態とは・・・

普段はなかなか行く事が無かったであろう渋谷駅ホームの横浜寄りの姿。レールファン以外はあまりこういうシーンを眺めることは少ないと思うが、現在では渋谷をスルーする事ができるようになりある意味効率的な運転ができるようになった。
それはともかく、汽車旅相談室で読んだ国鉄職員の怠慢や姿勢は、現在のJR時代には、私の経験上や知る限りでは殆んど無いと思う。むしろJR九州などは、私が肥薩線で「隼人の風」と「いさぶろう・しんぺい」の乗車を兼ねて熊本へ抜ける際に「隼人の風」が大雨で肥薩線の霧島温泉で列車が立ち往生したまま運休になってしまい、熊本方面に行く道のりが閉ざされた際について、本来私の持っているフリーきっぷでは新幹線は利用できないのだが、救済処置として新幹線に乗車できるよう鹿児島中央に連絡をしてくれて対応してくれたのだ!
お客様に有利なよう、そして不便ないように対応してくれた姿勢・・・素晴らしいと思った。おかげで九州新幹線「初乗車」をフリーきっぷで体験できたのだ。当時は新八代から在来線に乗り換える時代であったので尚更貴重であろう。国鉄時代の汽車旅相談室に出てくる国鉄職員の杓子定規な考えには到底想像もつかない現在シーンがそこには存在した。いや、私がかつて国鉄時代に旅をしていた時も汽車旅相談室に出てくるようなトラブルは無く、むしろ優しく有利になるように対応してくれた思い出の方が多いし強い。であるのだから、やはり我々も「お客だ」的な意識をあまり持たずに、もっと鉄道会社に歩み寄る姿勢を持つ事でもっと楽しい旅が出来そうな気がする。そう、鉄道会社の影の努力があってこそ私たちは定まった時刻に列車に乗り、そして旅が出来るのである。皆様もご存じと思われるが、海外等では20時間遅れなんて列車もざらにある。それを考えると2~3分遅れでも車内アナウンスが入る日本の鉄道事情は、他の国から見たら考えられないシーンでもあるだろう。

そして相鉄が更なる延伸計画を企てている中、東急はどう変化していくのであろうか。輸送量増加に伴い東京寄りを複々線にしないと捌ききれない状態であったろうが、目蒲線や大井町線等既存の路線を活用し東横線や田園都市線を改良する事で複々線をぜずに対応した姿は記憶に新しい。西武は相鉄の乗り入れにやや難色を示しているらしいが、そこは是非西武の英断に期待する!
さて、皆様の鉄道の旅はいかがであろうか。たくさんの経験、そして素敵な思い出などあれば私に是非お知らせ願いたい。
鉄道での旅・・・私は今の時代にあえて「汽車旅」と表現したい。その汽車旅を楽しくしていく術は我々自身から歩み寄る・・・そして作り出すものではないか。そう感じてならない2021年である。

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今年も鉄道全線完全制覇の旅をよろしくお願いいたします。

今回の写真掲載は1978年、二見書房より発行の「ブルートレイン」より右側のカード内容を紹介していたが、期間限定という事でご了承頂き、お蔵入りになっていた渋谷駅の様子に差し替えさせていただき紹介していきたい。
2021年スタートした!国鉄からJRに移管してから既に30年以上経過したが、とにかく合理化され民営化ならではの努力がなされており、国鉄時代からは想像もつかないほど進化している。ワンマン運転が当たり前の時代である現代の鉄道事情も、国鉄時代では山陰本線などでワンマン運転が導入された事が非常に新鮮かつショッキングな出来事であった。どんな小さなローカル線でも車掌が乗務していたし、そして駅員のいる改札では必ず職員が座り硬券の切符にパンチ(鋏)を入れていた、そんな時代であった。
そして切符の販売などをコンピューターで処理する「マルス」の機能が本格的に進化しはじめたのが私がレールファンとして全盛期であった小学校高学年~中学校時代である1970年代~1980年代からであった記憶だ。

今回は私自身も撮影していた事さえ記憶から遠ざかっていた東横線の旧・渋谷駅の様子を紹介しよう。もちろんこの風景は記憶に新しいが、時間の経過とともに後世に引き継がれ貴重な風景となる事であろう。
しかしながら、まだまだマルスによる周遊券等の発券は少なかった記憶で、駅のみどりの窓口などでは周遊券などは発券別に常備券の在庫を持たねばならず、切符売り場の窓口職員や、もっと言えば改札に立つ職員等は、一年に数枚しか売れない周遊券等の細かいルールなどを全て覚えるというのはかなり大変な作業であったろう。もちろん、全て頭に入っているというのがプロとして当然であるはずだし、そしてそれを前提として我々利用者は快適に旅が出来る事が基本的な考え方であろう。

ホームは頭端式で渋谷を通過できる列車は皆無である。ウィキによると昭和2年の開業という事なので物凄い年月が流れていいた事になる。もちろんその間増改築が著しく行われ現在の姿になった事は周知の通りである。
私のブログにちょくちょく顔を出す「種村直樹の汽車旅相談室」は、そんな旅先でのトラブル等を「規則」を通じて解説・解決していく趣旨であった。現代における若い世代のレールファン達はこの「汽車旅~」に関してはもう伝説に部類に入っていると思われるし、種村直樹と聞いても「昔の人」的イメージか、むしろ知らない方のほうが多いであろう。
改めて「種村直樹の汽車旅相談室」について解説すると、RJ社が発行(当時)する「旅と鉄道」という鉄道誌に始まる。最初は「旅を楽しくする実践講座」というタイトルであったが「汽車旅相談室」に名前を変えて連載がスタートした。インターネット等が発達していない時代に鉄道旅のトラブル等の解決策として大きな反響を呼んだが、相談室への接触方法としては種村直樹氏の自宅にハガキや手紙を送付し、それを種村氏が返答・返信し、種村氏が厳選した相談のいくつかが「旅と鉄道」に掲載される、というイメージである。「えっ、種村氏に直接ハガキって、どうして住所が分かるの?」というクエスチョンが出てくると思うが、昔は雑誌そのものに筆者の住所等が普通に掲載されていた。昨年他界した志村けん氏も、雑誌等の付録に掲載されているタレントの住所等を見ていかりや長介の自宅に「弟子入り志願」に行ったとの本人談であった。
「汽車旅相談室」はその後単行本としていくつか発行された事ひとつとってもいかにこの相談室の反響が大きかったか頷けるであろう。

現在ではなんと西武鉄道との乗り入れが実現している東急東横線。かつて「伊豆戦争」を知る者にとっては現在のこのシーンが信じられない出来事であろう。
以前に私が取り上げた相談室の内容のひとつに「一筆書き乗車」というタイトルの記事がある。それは「一筆書き乗車中に例えば相模線の寒川支線(当時、現在は廃止)に乗車したくなった場合、別途寒川~西寒川の往復乗車券を買い往復するのは有効か?」みたいな内容である。この件に関して大反響を呼んだ事は私のブログでも解説しており、私のブログにも多くの意見が寄せられた。私自身も「違法」という意見を述べているが、久々に当時の「旅と鉄道」を読んでみたらとんでもない事が書いてあった。それは、一筆書きとはかけ離れた内容で拡大解釈し、「そんなにうまい話があるんですね。早速試してみます。」的な内容の文面が種村氏の元にたくさん寄れられたというのだ。例えば茅ヶ崎から茂原辺りまで行く場合、茅ヶ崎から120円(当時)を買い大網~茂原の別途往復切符を用意して「一筆書き中だ」と言えば安く済みますね、という者も出てくる的な内容であった。「そんなにうまい話」はともかく、それをわざわざ「試してみる」と種村氏にハガキを送るという事自体私には理解できないし信じられないが、実際に実行した者も少なくなかったであろう。そんな事もあって「違法ではないが感心しません」から回数をまたいで「規則の解釈上も疑問で、やめよう」にタイトルを変更し注意を呼びかけた経緯のある疑惑付きの内容であった。

かつての東横線では「特急」の設定が無かった。現在の特急の停車駅は実によく考えられた結果だと思う。私にしてみたら綱島や日吉をも通過するシーンは実に新鮮だ。
そんな汽車旅相談を日々読み続けていた中学生であったが、23年というブランクを乗り越えレールファンに復帰したのが2007年頃であった。そして2014年11月、私は「はまなす」に最初で最後の試乗をするために北海道へ旅立ったのであった。
その時の出来事。私は音威子府で「常盤軒」のそばを堪能した後、帰郷のため札幌から「はまなす」に乗る計画であった。札幌では待ち時間をあえて作って「はまなす」での飲料・食料や「日帰り温泉」の準備も進めていた。銭湯は苗穂と桑園の駅前にある事をインターネットで確認していたので桑園でスーパー銭湯を利用する事に決めた。

そしてなんといっても桜木町が廃止され元町・中華街までの延伸が実現した事である。実は横浜市営地下鉄も関内から分岐して中華街までの延伸が予定されていた。現在でもその名残が地下鉄の関内駅ホームで見られるが、結局東急に先手を打たれ、というより市営地下鉄の計画が頓挫してしまい断念・・・
いや、しかしすごい時代だ。銭湯ひとつ探すにも部屋の中でパソコンを眺めていればすぐに見つかる。私がかつてレールファン全盛で旅をしていた国鉄時代では、わざわざ書店で「駅前の宿」的な本を端から読みあさったり時刻表の巻末くらいにある広告や民宿案内みたいなページで日帰り温泉できる宿などを探すしかなかった時代だ。
私の場合、雑誌などで探す事もあったが、例えば旅先の現地で後に折り返し戻ってくる比較的待ち時間のある駅周辺を窓から眺め煙突を探す。もちろん工場とかの煙突ではなく「銭湯」の煙突だ。見つかると「よし、ここで下車だ!」とあらかじめ決めておいて折り返し戻ってきたら銭湯に向かう・・・みたいな、なんともアナログ的な探し方であった。この方法では実際に青森と南小松島で成功しているが、早い話、駅員さんなどにリサーチするのが一番いいかも知れない。なのになぜか私は煙突にこだわった。
そういえば一度だけ駅員にリサーチして入った銭湯が男鹿であった。秋田に折り返す列車を一本送らせても秋田から乗る列車は同じのため銭湯に向かう決意をしたのであった。

かつてはここに5000系も姿を現していた時代があった。私が小学生時代の頃まで見かけた記憶があるが、やがて8000系も東急から姿を消す事となったのは寂しい限りである。
そんな旅慣れた私が自信満々で桑園で下車するため切符を窓口で見せた。別途区間の乗越精算のため自動改札から出られないためだ。私は音威子府~東京都区内の切符を見せて札幌~桑園の乗越運賃を係員に渡そうとした。ところが「これでは足りませんね。白石~桑園までの運賃をお願いします」と更に追加の運賃を請求された。「いやいや、サロベツで札幌まできて、札幌からはまなすに乗るんですけど・・・」と説明したが・・・ここで気がついた。そう、函館本線と千歳線の接点は白石であるから、特急の止まらない白石からは札幌まで乗り越しても「途中下車しなければ」料金不要である。つまり私は白石で「途中下車した」事になるのだ。こんな初歩的な事を、しかもベテランの域を超えた(?)レールファンが見落とすとは!駅員にあわせる顔もなかった、って、駅員さんが私の事をレールファンとは知らないであろうが・・・とにかく、こんな基本的な事を見落とす大失態である!!!その後のスーパー銭湯内で私は、湯船の中で恥ずかしくていられなかったのであった・・・
あれだけ「汽車旅相談室」などと豪語していた私にとって、これほどの大失態とは・・・

普段はなかなか行く事が無かったであろう渋谷駅ホームの横浜寄りの姿。レールファン以外はあまりこういうシーンを眺めることは少ないと思うが、現在では渋谷をスルーする事ができるようになりある意味効率的な運転ができるようになった。
それはともかく、汽車旅相談室で読んだ国鉄職員の怠慢や姿勢は、現在のJR時代には、私の経験上や知る限りでは殆んど無いと思う。むしろJR九州などは、私が肥薩線で「隼人の風」と「いさぶろう・しんぺい」の乗車を兼ねて熊本へ抜ける際に「隼人の風」が大雨で肥薩線の霧島温泉で列車が立ち往生したまま運休になってしまい、熊本方面に行く道のりが閉ざされた際について、本来私の持っているフリーきっぷでは新幹線は利用できないのだが、救済処置として新幹線に乗車できるよう鹿児島中央に連絡をしてくれて対応してくれたのだ!
お客様に有利なよう、そして不便ないように対応してくれた姿勢・・・素晴らしいと思った。おかげで九州新幹線「初乗車」をフリーきっぷで体験できたのだ。当時は新八代から在来線に乗り換える時代であったので尚更貴重であろう。国鉄時代の汽車旅相談室に出てくる国鉄職員の杓子定規な考えには到底想像もつかない現在シーンがそこには存在した。いや、私がかつて国鉄時代に旅をしていた時も汽車旅相談室に出てくるようなトラブルは無く、むしろ優しく有利になるように対応してくれた思い出の方が多いし強い。であるのだから、やはり我々も「お客だ」的な意識をあまり持たずに、もっと鉄道会社に歩み寄る姿勢を持つ事でもっと楽しい旅が出来そうな気がする。そう、鉄道会社の影の努力があってこそ私たちは定まった時刻に列車に乗り、そして旅が出来るのである。皆様もご存じと思われるが、海外等では20時間遅れなんて列車もざらにある。それを考えると2~3分遅れでも車内アナウンスが入る日本の鉄道事情は、他の国から見たら考えられないシーンでもあるだろう。

そして相鉄が更なる延伸計画を企てている中、東急はどう変化していくのであろうか。輸送量増加に伴い東京寄りを複々線にしないと捌ききれない状態であったろうが、目蒲線や大井町線等既存の路線を活用し東横線や田園都市線を改良する事で複々線をぜずに対応した姿は記憶に新しい。西武は相鉄の乗り入れにやや難色を示しているらしいが、そこは是非西武の英断に期待する!
さて、皆様の鉄道の旅はいかがであろうか。たくさんの経験、そして素敵な思い出などあれば私に是非お知らせ願いたい。
鉄道での旅・・・私は今の時代にあえて「汽車旅」と表現したい。その汽車旅を楽しくしていく術は我々自身から歩み寄る・・・そして作り出すものではないか。そう感じてならない2021年である。

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コメント
お久しぶりです。
あいあんさいど様
あいあんさいど様、コメントありがとうございます。そして明けましておめでとうございます。
「実は別の出版社の、絵はがき型の同様のものを持っていたことがありまして、それはブルトレとL特急との抱き合わせのものでした。」
とは、そちらも貴重ですよね!できれば是非とも公開していただきたい所存でありますが、もちろん権利関係などもありますのでその辺は慎重にお願いいたします。
さて、私のこの度の所有物公開あたり二見書房様よりお許しいただいて大変光栄に思います。そして1978年ものですからご覧の通りよくぞ私の手元に残っていてくれたものと思います。一時期はレールファンを離れましたが、それでも年数経過とともに貴重になると我ながらに感じてましたので処分せずにそのままにしておいたイメージです。
去年の9月に転居しましたが、その際に改めて日の目を見るようになりこうして皆様にもご覧いただけたので、喜んでいただけたら大変光栄ですし二見書房様のご協力あっての掲載ですので、是非ともお楽しみいただきたいと思います。
あいあんさいどさんの「美しい記憶」についてそのままにしておくのももちろん大事ですが、もしタイミングがあったら一度チャレンジしてみてはいかがでしょうか?もしかしたら本当に「美しい記憶」のままに蘇るかもしれませんよ!
本年もよろしくお願いいたします。
「実は別の出版社の、絵はがき型の同様のものを持っていたことがありまして、それはブルトレとL特急との抱き合わせのものでした。」
とは、そちらも貴重ですよね!できれば是非とも公開していただきたい所存でありますが、もちろん権利関係などもありますのでその辺は慎重にお願いいたします。
さて、私のこの度の所有物公開あたり二見書房様よりお許しいただいて大変光栄に思います。そして1978年ものですからご覧の通りよくぞ私の手元に残っていてくれたものと思います。一時期はレールファンを離れましたが、それでも年数経過とともに貴重になると我ながらに感じてましたので処分せずにそのままにしておいたイメージです。
去年の9月に転居しましたが、その際に改めて日の目を見るようになりこうして皆様にもご覧いただけたので、喜んでいただけたら大変光栄ですし二見書房様のご協力あっての掲載ですので、是非ともお楽しみいただきたいと思います。
あいあんさいどさんの「美しい記憶」についてそのままにしておくのももちろん大事ですが、もしタイミングがあったら一度チャレンジしてみてはいかがでしょうか?もしかしたら本当に「美しい記憶」のままに蘇るかもしれませんよ!
本年もよろしくお願いいたします。
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ちょうどブルトレブームの真っ只中の頃のものと思われますが、
実は別の出版社の、絵はがき型の同様のものを持っていたことがありまして、それはブルトレとL特急との抱き合わせのものでした。
写真はそれこそ第一人者の広田尚敬氏と南正時氏だったと記憶しております。
もしかしたらどこかに眠っているのかもしれませんが、さすがに探す勇気も出ず…。
ただ、下手に掘り起こすよりは「美しい記憶」として残しておいた方がいいような気もするので、今はそのままにしております。
それにしても、貴重なものをお持ちで頭の下がる思いです。
本年もよろしくお願いいたします。