風立ちぬ~今は秋OR冬?②
2020-11-25
1983年秋、初めて北の大地を踏みしめた私は、同年の夏に中学三年生で東北一周の旅を経験したせいか、ひとまわり自分が大きくなったような余裕があった気がした。
東北ではトラブルの連続で、事前に立てた計画の原型がかなり崩れて即興で事態を修復する…そんな経験を積んだための、北海道では適応能力が身に付いた故の余裕だったのかも知れない。結果的に北海道の旅は100%事前計画通りに進んだが、むしろトラブルを望んでいたのかも知れない。

2014年訪問時の清水沢。もちろん「三菱」の姿はないが面影があるのはなんともノスタルジー。ホームと駅舎を結ぶ通路の長さが石炭時代の盛栄を無言で語りかけていた。
そんな中での石勝線初訪。まだまだ「夕張線」のイメージが強く、新夕張~新得イコール石勝線のイメージであったが、考えてみたら既存の追分~新夕張間も改良され新夕張~新得間と同等の規格になっているのだから、千歳空港(当時)~追分間も含め石勝線でよかろうと思う。ただ、新夕張~夕張間を「石勝線」としたのは個人的に疑問が残るのだが皆様はどうお考えであろうか。
結果、本線から「支線」に転落した新夕張~夕張間であるが、まだ当時は「三菱石炭鉱業」が清水沢で接続していたのだから時代を感じる。

こちらも2014年に訪問した時の楓の超有名アングルである。信号場に格下げされて10年が経過したが(当時)、駅舎こそ無いものの普通列車専用の独立ホームと本線上の旅客ホームは未だ健在であった。ただ、中線は撤去され本線上のホームへの通路は固く閉ざされていた。右側の道路は旧登川支線である事は周知の通り。
1983年の初訪は苫小牧から夕張線、いや、石勝線直通の夕張行きに乗り夕張を目指したが、この列車は石勝線開通前から設定されていた「夕張線」の名残を留めたダイヤであった。私は初代夕張駅を経験したが、正直言って夜の時間帯だったため駅風景を確認する事は難しく、それこそ「立ち寄った」に過ぎなかった。ただ、最初で最後であるが現役時代の楓を経験できてある意味貴重であったろう。ただ、欲を言えばスイッチバック時代の楓を経験してみたかったという贅沢な思いもある。しかしながらスイッチバック時代の楓を知る者は、登川支線の楓がまさか本線上の駅に、そして信号場へと変化するとは誰も思わなかったであろう。

「紅葉山」の現役時代である。現在の道の駅とその駐車場付近よりやや西寄りにあった。1983年に私が訪問した時はレールがはがされホームのみの残骸があった(写真は「昔訪ねた気動車ローカル線」のHP<現在は閉鎖>を管理していらっしゃるミックスマテリアル様提供)。
そんな石勝線の「本線」であるが、今でこそ信号場であるオサワ地区にはもの凄く壮絶な逸話がある。その辺りは次回に紹介したいと思うが、まさに開拓部落の方々の命懸けのドラマがそこにはあった。

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鉄道全線完全制覇の旅
東北ではトラブルの連続で、事前に立てた計画の原型がかなり崩れて即興で事態を修復する…そんな経験を積んだための、北海道では適応能力が身に付いた故の余裕だったのかも知れない。結果的に北海道の旅は100%事前計画通りに進んだが、むしろトラブルを望んでいたのかも知れない。

2014年訪問時の清水沢。もちろん「三菱」の姿はないが面影があるのはなんともノスタルジー。ホームと駅舎を結ぶ通路の長さが石炭時代の盛栄を無言で語りかけていた。
そんな中での石勝線初訪。まだまだ「夕張線」のイメージが強く、新夕張~新得イコール石勝線のイメージであったが、考えてみたら既存の追分~新夕張間も改良され新夕張~新得間と同等の規格になっているのだから、千歳空港(当時)~追分間も含め石勝線でよかろうと思う。ただ、新夕張~夕張間を「石勝線」としたのは個人的に疑問が残るのだが皆様はどうお考えであろうか。
結果、本線から「支線」に転落した新夕張~夕張間であるが、まだ当時は「三菱石炭鉱業」が清水沢で接続していたのだから時代を感じる。

こちらも2014年に訪問した時の楓の超有名アングルである。信号場に格下げされて10年が経過したが(当時)、駅舎こそ無いものの普通列車専用の独立ホームと本線上の旅客ホームは未だ健在であった。ただ、中線は撤去され本線上のホームへの通路は固く閉ざされていた。右側の道路は旧登川支線である事は周知の通り。
1983年の初訪は苫小牧から夕張線、いや、石勝線直通の夕張行きに乗り夕張を目指したが、この列車は石勝線開通前から設定されていた「夕張線」の名残を留めたダイヤであった。私は初代夕張駅を経験したが、正直言って夜の時間帯だったため駅風景を確認する事は難しく、それこそ「立ち寄った」に過ぎなかった。ただ、最初で最後であるが現役時代の楓を経験できてある意味貴重であったろう。ただ、欲を言えばスイッチバック時代の楓を経験してみたかったという贅沢な思いもある。しかしながらスイッチバック時代の楓を知る者は、登川支線の楓がまさか本線上の駅に、そして信号場へと変化するとは誰も思わなかったであろう。

「紅葉山」の現役時代である。現在の道の駅とその駐車場付近よりやや西寄りにあった。1983年に私が訪問した時はレールがはがされホームのみの残骸があった(写真は「昔訪ねた気動車ローカル線」のHP<現在は閉鎖>を管理していらっしゃるミックスマテリアル様提供)。
そんな石勝線の「本線」であるが、今でこそ信号場であるオサワ地区にはもの凄く壮絶な逸話がある。その辺りは次回に紹介したいと思うが、まさに開拓部落の方々の命懸けのドラマがそこにはあった。

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