風立ちぬ~今は秋OR冬?③
2020-11-30
石勝線の魅力はなんだろう?と自身に問うた場合、やはり新夕張~新得間は物凄い秘境地区に踏切無し、高規格線路、スノーシェルターと開業時当時の最新設備を投入した斬新の路線であり、その目的は札幌と道東アクセスを主題としたものである事がどうも私を惹き付けるみたいだ。
しかしながら計画された当初は紅葉山(現在の新夕張)から占冠を通り根室本線の金山に抜ける通称「紅葉山線」と日高町(国鉄時代の富内線、現在は廃止)から占冠を通り新得ぬける通称「狩勝線」の組み合わせで、両者の一部を具現化し現在の目的に変更し敷設された路線であることは周知の通りである。

国鉄時代の敷設計画が本気で進んでいたら大きな要衝になったであろう占冠。2面3線のホームは時刻表を見る限り旅客列車の交換は皆無であるが、貨物列車との交換風景は見れるのであろうか。
ご覧の通り、計画通りに敷設されていれば占冠が大きな拠点となっていたのは明白で、富良野辺りから占冠を通り日高町を経由して苫小牧へ出れば室蘭方面へのルートが確立する。もちろん、旅客輸送のみを目的に計画されたのではない事は誰がみても明白であろう。
ただ、石勝線の中でも重要なポイントとなるのが「トマム」の存在である。まさか先代が石勝線のルートを決める際にトマムが今のような一大リゾートとなり要衝となるとは考えもしなかったであろう。そのトマムからは現在でも本数は少ないながら金山と結ぶ路線バスが発着する。現在、根室本線の一部区間が不通になっていて、不通区間を含め廃止の案が出ているが、もし代行バスを走らせる場合金山から落合、新得と鉄道路線に忠実になるよりも金山からトマムに向かわせた方が実態にあっているではないか。実際に富良野で観光しトマムに宿泊する又はその逆のバターンの観光客が少なくないと聞く。もちろん観光客的な需要は「水物」ではあるが、やはり落合付近からトマムに接続させる方が実用的である。

私には「石勝高原」のイメージが強い駅舎風景のトマム。こちらの駅舎からの利用者は年間で何人いるのか不明だが、実は駅前から金山方面と占冠方面へ路線バスの運転がある!1日2本であるが、それでも素晴らしい。
ところで今回、この石勝線の記事を書くにあたり「北海観光節」のホームページ管理人様より全面協力をいただいた。
そこには、オサワ地区に住む開拓部落の方々の苦労や自然との戦いなどが壮絶に記されていた。
オサワは漢字で長和と書く。室蘭本線に同じく長和と書いてナガワと読む駅があるので,こちらはカタカナになっている。長和は奥穂別,上穂別とも言われた穂別町の最奥部で,明治38年に最初の8戸が入地している。
集落の中心地は信号場よりも数km南にあった。地図で見ると,ただでさえ山奥の穂別から穂別川をさかのぼること20数kmというすごいところだが,この長和にしても山一つ越えた福山にしても,鵡川を上って入植した者は皆無で,皆紅葉山から楓峠を越え稲里を経由して入植している。しかし,紅葉山から入ったにしても長和から紅葉山までは8里(32km)余りの険路で,日用品の調達すらままならない状況であった。
入植者達は互いに助け合って困窮した生活をしのいでいたが,しだいに絶望感が漂いはじめたあるとき,楓のほうから汽笛が聞こえてきたという。「汽笛がこんな近くに聞こえるのだから,この山を越えれば鉄道が走っているのではないか!」。開拓民達は期待に胸を膨らませ,明治39年3月,さっそく探検隊を結成して山中へと入った。しかし,人跡未踏の山の中である。背丈より高い藪に覆われ見通しはまったくきかず迷うこと3日,とうとう駅を発見できないうちに食料が尽きて村に引き返した。
これにも屈せず,隊員を4名から6名に増強して再度山に分け入り,探検すること4昼夜におよんだが,またも方向を失い食糧も尽きて,一行は大木の下に腰を下ろして茫然とした。しかし天は彼らを見放さなかった。そのとき汽笛一声虚空を破って響きわたり,一行は息を吹き返して山をすべり降りた。そこは楓炭鉱で,炭鉱事務所を訪問し事情を話したところ厚く歓迎され,楓に来たという証明書を書いてもらって村へ持ちかえったという。
すぐに部落民総出で道路開削工事に取り掛かったが,測量中に道を失うなど難航に難航を重ね,馬も通れる道ができたのは4年後のことであった。
「北海観光節」の文章をそのまま引用させていただいたが、ご覧の通りいかに壮絶だったかがものすごい勢いで伝わって来るではないか。楓方面へ道を切り開く姿などまさに時代を感じるが、現在ほど重機や道具等が発達していなかったのだからなおさら苦労が多かったに違いない。まさに命懸けの開拓である。


「新登川」として旅客駅の予定であった東オサワ信号場、とここで記して、その存在がお分かりいただけたであろうか。写真中央の白い小さな看板で「東オサワ」と表記されているが、もし旅客駅として開業していた場合、この階段を登るようなイメージで作られたのであろうか・・・
だが、時間が経過し時代が変わると高速道路が開通し石勝線も、夕張線を編入し紅葉山(新夕張)~新得が新規開通し先代の思い描いていた以上の交通手段か確立された頃にはそこに生活はなかった。つまり石勝線に信号場が多いのはこうした背景によるものがほとんどだが、そのなかでも占冠はよく現代シーンに残ってくれているものだと逆に感動してしまう。そしてトマムがリゾート地として脚光を浴び、紆余曲折はあったもののこうして今も活躍しているとは先代の頭の中には構想の欠片もなかったであろう。
「北海観光節」のホームページ管理人様、ご協力ありがとうございました。この場を借りまして、心より感謝させていただきます!

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鉄道全線完全制覇の旅
しかしながら計画された当初は紅葉山(現在の新夕張)から占冠を通り根室本線の金山に抜ける通称「紅葉山線」と日高町(国鉄時代の富内線、現在は廃止)から占冠を通り新得ぬける通称「狩勝線」の組み合わせで、両者の一部を具現化し現在の目的に変更し敷設された路線であることは周知の通りである。

国鉄時代の敷設計画が本気で進んでいたら大きな要衝になったであろう占冠。2面3線のホームは時刻表を見る限り旅客列車の交換は皆無であるが、貨物列車との交換風景は見れるのであろうか。
ご覧の通り、計画通りに敷設されていれば占冠が大きな拠点となっていたのは明白で、富良野辺りから占冠を通り日高町を経由して苫小牧へ出れば室蘭方面へのルートが確立する。もちろん、旅客輸送のみを目的に計画されたのではない事は誰がみても明白であろう。
ただ、石勝線の中でも重要なポイントとなるのが「トマム」の存在である。まさか先代が石勝線のルートを決める際にトマムが今のような一大リゾートとなり要衝となるとは考えもしなかったであろう。そのトマムからは現在でも本数は少ないながら金山と結ぶ路線バスが発着する。現在、根室本線の一部区間が不通になっていて、不通区間を含め廃止の案が出ているが、もし代行バスを走らせる場合金山から落合、新得と鉄道路線に忠実になるよりも金山からトマムに向かわせた方が実態にあっているではないか。実際に富良野で観光しトマムに宿泊する又はその逆のバターンの観光客が少なくないと聞く。もちろん観光客的な需要は「水物」ではあるが、やはり落合付近からトマムに接続させる方が実用的である。

私には「石勝高原」のイメージが強い駅舎風景のトマム。こちらの駅舎からの利用者は年間で何人いるのか不明だが、実は駅前から金山方面と占冠方面へ路線バスの運転がある!1日2本であるが、それでも素晴らしい。
ところで今回、この石勝線の記事を書くにあたり「北海観光節」のホームページ管理人様より全面協力をいただいた。
そこには、オサワ地区に住む開拓部落の方々の苦労や自然との戦いなどが壮絶に記されていた。
オサワは漢字で長和と書く。室蘭本線に同じく長和と書いてナガワと読む駅があるので,こちらはカタカナになっている。長和は奥穂別,上穂別とも言われた穂別町の最奥部で,明治38年に最初の8戸が入地している。
集落の中心地は信号場よりも数km南にあった。地図で見ると,ただでさえ山奥の穂別から穂別川をさかのぼること20数kmというすごいところだが,この長和にしても山一つ越えた福山にしても,鵡川を上って入植した者は皆無で,皆紅葉山から楓峠を越え稲里を経由して入植している。しかし,紅葉山から入ったにしても長和から紅葉山までは8里(32km)余りの険路で,日用品の調達すらままならない状況であった。
入植者達は互いに助け合って困窮した生活をしのいでいたが,しだいに絶望感が漂いはじめたあるとき,楓のほうから汽笛が聞こえてきたという。「汽笛がこんな近くに聞こえるのだから,この山を越えれば鉄道が走っているのではないか!」。開拓民達は期待に胸を膨らませ,明治39年3月,さっそく探検隊を結成して山中へと入った。しかし,人跡未踏の山の中である。背丈より高い藪に覆われ見通しはまったくきかず迷うこと3日,とうとう駅を発見できないうちに食料が尽きて村に引き返した。
これにも屈せず,隊員を4名から6名に増強して再度山に分け入り,探検すること4昼夜におよんだが,またも方向を失い食糧も尽きて,一行は大木の下に腰を下ろして茫然とした。しかし天は彼らを見放さなかった。そのとき汽笛一声虚空を破って響きわたり,一行は息を吹き返して山をすべり降りた。そこは楓炭鉱で,炭鉱事務所を訪問し事情を話したところ厚く歓迎され,楓に来たという証明書を書いてもらって村へ持ちかえったという。
すぐに部落民総出で道路開削工事に取り掛かったが,測量中に道を失うなど難航に難航を重ね,馬も通れる道ができたのは4年後のことであった。
「北海観光節」の文章をそのまま引用させていただいたが、ご覧の通りいかに壮絶だったかがものすごい勢いで伝わって来るではないか。楓方面へ道を切り開く姿などまさに時代を感じるが、現在ほど重機や道具等が発達していなかったのだからなおさら苦労が多かったに違いない。まさに命懸けの開拓である。


「新登川」として旅客駅の予定であった東オサワ信号場、とここで記して、その存在がお分かりいただけたであろうか。写真中央の白い小さな看板で「東オサワ」と表記されているが、もし旅客駅として開業していた場合、この階段を登るようなイメージで作られたのであろうか・・・
だが、時間が経過し時代が変わると高速道路が開通し石勝線も、夕張線を編入し紅葉山(新夕張)~新得が新規開通し先代の思い描いていた以上の交通手段か確立された頃にはそこに生活はなかった。つまり石勝線に信号場が多いのはこうした背景によるものがほとんどだが、そのなかでも占冠はよく現代シーンに残ってくれているものだと逆に感動してしまう。そしてトマムがリゾート地として脚光を浴び、紆余曲折はあったもののこうして今も活躍しているとは先代の頭の中には構想の欠片もなかったであろう。
「北海観光節」のホームページ管理人様、ご協力ありがとうございました。この場を借りまして、心より感謝させていただきます!

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