お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。 1984年ダイヤ改正版 東北編(前編)
2021-02-15
1983年に私は東北の旅は既に終えているが、1984年2月ダイヤ改正バージョンで立案してみた。1983年に実際に東北を訪問した際は、極めて波乱万丈な旅となってしまった。当初の計画より現地でかなり手を加え変更したり、夜行列車乗車の際に下車駅で寝過ごしてしまい運転停車の駅で下車させてもらったり、夜行列車からの乗り換えで山形で「始発」を待合室で待っていた時には現地の人に声をかけられどこかへ連れていかれそうになったり…例えその人に悪意はなくても「受けてはいけない親切」ってあるものだよねと肌で感じたりと、何かと勉強になったりもした、いわば「人生のターニングポイント」的な旅であった。

1979年訪問時の青森では、これから乗車する急行「津軽」の12系車両が一緒に収まっていた。青森発の上り「津軽」は青森を確か15時30分頃の出発であったのでめちゃめちゃ早い出発となる。寝台も連結されていたのでできれば寝台で帰郷したかったのだが、この時は座席であった。ちなみに1979年当時、私は小学校5年生であった。
ただ、計画自体は「ここをこうすれば」的な思いが後から後から出てくるものであり、1984年の時刻表を開き改めてその思いをぶつけてみた。1983年の時のように急行「おが」などの臨時列車を使わず全て定期便を使う事と、旅籠は必ず「夜行列車」という条件を付けての立案となる。もちろん夜行列車は寝台特急をフルに使うと「ヒルネ」の区間がない列車がほとんどのため莫大な経費がかかるので、ワイド周遊券特有のルールをフルに活用し「八甲田」「十和田」「津軽」などの急行列車を頻繁に使う事となる。ただ、周遊区間に入るまでの列車は東北上越新幹線開業に伴い在来線の特急.急行列車が激減したため乗車できる列車が限られてしまうが、それでも東北本線などの急行列車はまだまだ健在だったため現地までは周遊券のみで旅ができたのがラッキーであろう。

現在は由利高原鉄道として活躍している羽後矢島。1983年訪問当時のものであるので当然ながら国鉄時代である。今回、1984年での立案で紹介しているが、1983年訪問時では東北の私鉄各線を制覇しなかったので、できればタイムマシンに乗って栗原電鉄や南部縦貫鉄道などを制覇してみたい気持であった。
しかしながら2月改正の時点ではまだ三陸鉄道が開通前で、普代~田老や岩泉までは国鉄バスで移動しなければならないが、1983年の段階では八戸線の始発を八戸発で南に下れば普代から路線バスで北山崎展望台で乗り換え岩泉へたどり着けたが、1984年の改正では北山崎展望台から先のバスが減便され岩泉方面への道が閉ざされてしまった。田老方面へもかなりの待ち時間になり、数ヵ月後に開通した三陸鉄道を利用した方が確実に効率的であろう。今回の立案では八戸線と久慈線を往復し八戸へ戻る事にしたが、やはり普代~田老、岩泉のルートが使えないのは実に大きな痛手である。

1982年に誕生した特急「たざわ」。新幹線連絡特急として活躍したが、現在は周知の通り、ミニ新幹線「こまち」としてグレードアップして活躍中。(この写真はダイナミック☆トナカイ提供)
1980年代では「急行全廃」がささやかれ、新幹線開業やダイヤ改正の度に急行列車が徐々にフェードアウトしていった。とはいえ、まだまだ全国では急行列車が活躍していたので周遊券利用の際は実に大きな活躍をしたイメージだ。
そんな状況下での立案をしてみたが、皆様はどういう印象を持たれるだろうか。次回アップでその詳細を紹介してみよう。

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続きをクリックすると1983年8月に敢行した東北旅の元計画がご覧頂ける。次回アップの東北旅の実際の行程とかなり食い違う場面があり、如何に現地ではサバイバルな旅であったかお分かりいただける事であろう。もちろん、実際の旅で起こった新庄を下車しそこなって山形での運転停車で下車させてもらった事等は最初から計画に組み込めないため私も予定外の行動に当時は必死だった。もちろん、そんな経験があるからこそ現在のような適応能力があるのは言うまでもないが・・・(って、完全無欠の能力ではないが)


1979年訪問時の青森では、これから乗車する急行「津軽」の12系車両が一緒に収まっていた。青森発の上り「津軽」は青森を確か15時30分頃の出発であったのでめちゃめちゃ早い出発となる。寝台も連結されていたのでできれば寝台で帰郷したかったのだが、この時は座席であった。ちなみに1979年当時、私は小学校5年生であった。
ただ、計画自体は「ここをこうすれば」的な思いが後から後から出てくるものであり、1984年の時刻表を開き改めてその思いをぶつけてみた。1983年の時のように急行「おが」などの臨時列車を使わず全て定期便を使う事と、旅籠は必ず「夜行列車」という条件を付けての立案となる。もちろん夜行列車は寝台特急をフルに使うと「ヒルネ」の区間がない列車がほとんどのため莫大な経費がかかるので、ワイド周遊券特有のルールをフルに活用し「八甲田」「十和田」「津軽」などの急行列車を頻繁に使う事となる。ただ、周遊区間に入るまでの列車は東北上越新幹線開業に伴い在来線の特急.急行列車が激減したため乗車できる列車が限られてしまうが、それでも東北本線などの急行列車はまだまだ健在だったため現地までは周遊券のみで旅ができたのがラッキーであろう。

現在は由利高原鉄道として活躍している羽後矢島。1983年訪問当時のものであるので当然ながら国鉄時代である。今回、1984年での立案で紹介しているが、1983年訪問時では東北の私鉄各線を制覇しなかったので、できればタイムマシンに乗って栗原電鉄や南部縦貫鉄道などを制覇してみたい気持であった。
しかしながら2月改正の時点ではまだ三陸鉄道が開通前で、普代~田老や岩泉までは国鉄バスで移動しなければならないが、1983年の段階では八戸線の始発を八戸発で南に下れば普代から路線バスで北山崎展望台で乗り換え岩泉へたどり着けたが、1984年の改正では北山崎展望台から先のバスが減便され岩泉方面への道が閉ざされてしまった。田老方面へもかなりの待ち時間になり、数ヵ月後に開通した三陸鉄道を利用した方が確実に効率的であろう。今回の立案では八戸線と久慈線を往復し八戸へ戻る事にしたが、やはり普代~田老、岩泉のルートが使えないのは実に大きな痛手である。

1982年に誕生した特急「たざわ」。新幹線連絡特急として活躍したが、現在は周知の通り、ミニ新幹線「こまち」としてグレードアップして活躍中。(この写真はダイナミック☆トナカイ提供)
1980年代では「急行全廃」がささやかれ、新幹線開業やダイヤ改正の度に急行列車が徐々にフェードアウトしていった。とはいえ、まだまだ全国では急行列車が活躍していたので周遊券利用の際は実に大きな活躍をしたイメージだ。
そんな状況下での立案をしてみたが、皆様はどういう印象を持たれるだろうか。次回アップでその詳細を紹介してみよう。

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