国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。上信電鉄①下仁田
2023-10-28

何度か引退したプロレスラーに似たような名前を聞いたことがあるが、こちらはこんにゃくやネギの産地として有名な下仁田である。当初は下仁田より西への延伸計画もあったらしいが、もし実現していたとしても厳しい戦いを強いられたであろう。私が訪問した2023年現在でも下仁田より西は櫛形ホームで遮られ、それ以上先に鉄路を敷く意志が無い事を無言でアピールしていた。


若干のリニューアルはあると思われるが、恐らく開業当時からの佇まいであろう素晴らしい駅舎は現在も健在である。すぐ隣にある関連会社の施設も往年の姿を感じずにはいられない程歴史を感じる。
高崎よりひたすら西へ向かいたどり着いた終点の駅が下仁田であるが、南北の移動を考えた場合、以外にも軽井沢方面に近い事に気付かされた今回の旅てあった。
実は今回、私は高崎方面からやって来たが、南蛇井から下仁田まで来る間に一気に風景が変化した。それまでは文明的なオーラが漂い、意外にも上信電鉄の存在意義を感じたが、南蛇井を境に一気に田園風景が増えたイメージである。もちろん、それまでもしっかりと田園風景が描かれていたが、その色が一気に濃くなったといえよう。
その象徴として、南蛇井~下仁田間には信号場がある。その周辺はやはり民家が少なく、かつての貨物輸送が盛んだった時代の名残が今も続くイメージであろうか。現在は高速道路も完成し物資輸送の主役はトラックなどに切り替わっているが、その名産品である農産物は今も昔も変わらず日本を代表する代名詞でもあろう。というのも、海外の一部ではヘルシーブームらしく、こんにゃくが重宝されているらしい。海外への輸出は昨年の4倍以上と聞く。



ご覧の通り、初めて訪れた方でも懐かしさを感じるであろう素晴らしい風景。国鉄時代に私が「いい旅チャレンジ20000km」で全国を駆け巡っていた時には至る所にこうした駅舎を見かけたが、現在はとても貴重な存在となってきた。
さて、本題の下仁田駅であるが、国道または県道のようなメイン道路より一本細い道に入る。暫く行くと視界が開け、駅のヤードが見えてくる。恐らくこの辺りでかつては貨物のやり取りが行われていたかも知れないが、駅舎に着いたらその脇にも使われなくなったと思われるホームがあり、こちらで貨物のやり取りが行われていた可能性が高い。いずれにしても、地元の方など詳細をご存じの方おられたらご教示いただけるとありがたい限りである。
そして恐らく開業当時からのものと思われる旧い駅舎は現在も健在で、昭和の古き良き風景を今でも感じることができるのは素晴らしい事であり貴重な存在でもある。
その素敵な駅風景につられ私は久々に入場券を購入した。すると…なんと硬券であった!窓口で入場券を買うなんて、昭和では当たり前の光景であったが、現在の「Suicaでピッ!」や自動券売機などでのやり取りを考えると、なんだか言葉では表せない温もりを感じる。


ちょっと離れた場所から駅を観察してみた。ご覧の通り、かつての盛栄がうかがえる風景が広がっていた。会社設立当初は向かいの山の方角への延伸が計画されていたが、その目論見も夢のままで終わってしまった。
そんな心暖まる下仁田であるが、やはり昔からの駅という事でかやり小ぢんまりとしている。鉄道路線の終点という事で大きな市街地を想像してしまいそうであるが、大きなバスロータリーなどはなく、タクシー会社とその駐車場らしき空間が駅前スペースとなり、都会のような雑踏が終始響いているような慌ただしさはなく、和やかな時間が過ぎていくイメージであった。
今回の訪問では、かつてコロタン文庫で見たような上信オリジナルの車両は見かけなかったが、西武系の車両が目立っていた印象であった。西武系の車両とは、もちろん「マシンX」やガルウィング式フェアレディZ等を差すのではなく、あくまで狭山や所沢付近で見かける車両の事でる。

確かに、名産品以上に人の温もりが駅舎を通じて伝わってくる。実は今回の旅の計画では下仁田から高速道路で軽井沢に抜け、旧・草軽鉄道のルートをたどり大前と万座・鹿沢口へ向かう計画であった。本来、ご覧の時間帯だと軽井沢に到着していなければならなかったのだが、予定が大幅にオーバー。しかしながらこうした駅舎と共有できる時間は貴重であるため、予定を変更してでもじっくりとこうした時間を大切にする事も大事であろう。
という事で、地方鉄道や昭和レトロな雰囲気を好む方ならここ上信電鉄は最高の憩いの地になるであろう。特に下仁田は、かつての盛栄を偲ばせながら時間がゆっくり過ぎていく風景は、少年時代に経験した「ふるさと」的な風景になんとなく似ていた気がした。時間の許す限りいつまでもここを離れたくない…シャッターを切りながら見えるレンズの向こうにある鉄路を見つめながらいつしかそんな気持ちになっていた。

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国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。上越編⑤ 越後中里
2023-10-21

群馬から国境の長いトンネルを抜け最初に大きな文明を感じるのはここ越後中里であった。もちろん、シーズンにはメッカとして活躍するであろうが、鉄道での役割は既に過去においてほぼ終了しており、現在はローカル輸送を中心に活躍している。
駅舎や駅前もその昭和の風景にマッチするようなイメージで現在に至っており、初めて来た場所なのになぜか懐かしささえ感じてしまった。



到着するなり早速駅舎内に入ると・・・ご覧の通り、昭和の風景満載であった!
新幹線開通前は急行や特急など在来線の優等列車が頻繁に走る中、越後中里にもシーズン問わず一部の列車が停車していたので、私の中ではそういう「位置付け」なっていた。
そして今回、いざ訪問してみたら、なんと国鉄時代の面影をほぼそのままに残したイメージであった。有効長の長いホームが当時の盛栄を無言で語りかけており、現在のJRでの編成ではホームを持て余してしまう。この事は上越線の各駅に言える事であろうが、いや、上越線に限らず全国各地の鉄道路線に言える事であるが、とにかく適正な車両数、適正な編成により極力経費を抑えるような経営努力は国鉄時代にはあまり見られなかったイメージであるが、それでも輸送量の減少により苦しい戦いを強いられている。そして鉄道自体の価値や意味も少しずつ変化してきている。

某ロックアーティストの大ファンの私からすると、一瞬「オッ!」と思わせるような張り紙が貼ってあった。こうしたアピールを見ると久々に私もひと滑りしたい気持ちになってくる。
実は、レールファン休業中に私は上越方面や信越方面によくスキーに出掛けた。ちょうどスキーからスノーボードへ人気が移り変わる時代であったが、その時は当然ながらマイカーであり、シーズンによく運転されていた「シュプール」などには全く乗車したことはない。ただ、現在のように圏央道は無く、神奈川から関越道に乗るには16号線で川越まで出るか、第三京浜から途中一般道を挟み練馬から関越道に乗るしかなかった。そしてようやく外環道と首都高、そして関越道がつながり一般道を挟まずに関越道に乗れる時代が来たと大変喜んでいた時代であった。現在は圏央道と関越道が繋がっており、非常に便利になり到達時間が飛躍的に向上した。
つまりこうした一連の流れひとつ取ってもわかるように、既に「シュプール」の時代は終わっていたのだ。恐らく、現在もシュプールが運転されていたとして、レールファンに返り咲いた私がスキーに行くとしてもやはりマイカーを選択するであろう。マイカーを使わないとしても、格安の夜行バスなどにシフトするであろうかもしれないが、やはり苗場や神立へのスキーは列車だと不便だ。

私の訪問時である7月では仮眠、いや「夏眠」状態であった。だが、やや小柄なイメージであるが・・・
国鉄からJRになり、大きく役割が変化した上越線だが、人々の鉄道利用にもここ数十年で大きな変化がみられ、ハッキリとした形になってきた。優等列車は全て新幹線に変わり便利になった一方で、在来線などで活躍した優等列車も去っていき、レールファンからすれば華やかさやバラエティー感が薄くなってしまったイメージになった。
しかしながら越後中里のホームに立つと、何故か懐かしいあの時代の風景が甦ってきた。某新幹線の駅前にはかつての総理大臣の銅像があると聞いている。上越新幹線は彼の象徴でもあるイメージではあるが、私は新幹線でもなく、SLでもなく、何故か上越新幹線開通前のL特急が華やかだったあの時代が好きだ。そんな時代を知る私は越後中里に呼ばれたのだろうか。

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国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。上越編④ 岩原スキー場前
2023-10-14

記録的な猛暑の報告を各所より聞く2023年夏に今回の旅は慣行されたが、そんな中、私はスキー場へ行ってきた。といってもスキー場「前駅」であるのでゲレンデは無いが、いや「スキー場前」と名乗っているのだから目の前にゲレンデがあるはずであろうが、残念ながらその確認ができなかった。どうやら駅より若干離れているらしい。
確かに、駅に到着する前にはスキー施設や宿泊施設を通り抜け駅に到着した。つまりそこが岩原スキー場だったのかと後にわかった。



バブル期にはお隣の神立高原スキー場(現・神立スノーリゾート)へは度々訪れていたが、岩原スキー場はもしかしたら一度スキーに来たかも知れない記憶がある。付近には宿泊施設が多数あるが、駅はその外れにあった。
岩原スキー場「前駅」の駅舎、というより待合室は、かつて臨時駅だったとは思えないほど立派な造りであった。ちなみに、ご存知かと思われるがあえて解説すると、この岩原は「いわっぱら」と読む。
さて、この岩原スキー場前駅であるが、先述通り私の知る限りではスキー場の営業日に合わせて営業される、いわば「臨時駅」であったが、いつからかスキーシーズンに限らず通年営業していたので毎日営業の臨時駅ということになる。JR化の際に昇格し通常の旅客駅として営業しているが、現在では上野から直通でやってくる列車は定期便では皆無となり、更に高速道路による夜行バスやマイカーでの往来が非常に便利になった事で「電車でスキーに行く」という昭和の常識はほとんど見かけなくなってしまった。もちろん、近年のそれは新幹線による「ガーラ」が担っているであろうが、いずれにしても夜行列車の廃止等によりそのポジションは薄れていった。



駅舎内に入ってみた。私のイメージでは「常設の臨時駅」であったが、JRになり旅客駅に昇格。以前に窓口があったと思われる場所は掲示板で閉ざされ「スキー場前」という駅名があまり感じない雰囲気を醸し出してた。
という時代の流れの中で取り残されてしまったような岩原スキー場前「駅」であるが、周辺には若干の民家や、なんとリゾートマンションもありさながらバブル時代を思い出させる。そのため若干の定期的な利用者がありそうな雰囲気であるが、私の訪問時には独占状態であった。
ホームは2面2線で、下りホームは島式ホームであるが、上り側に鉄柵が施され片側しか使用できないようになっている。そして上野からの臨時列車め停車できるようにホームの有効長は長く、現在のJR形編成ではやや持て余してしまいそうな国鉄型ホームが時代を感じる。かつてはスキー客用の臨時列車「シュプール」が各スキー場方面へ運転されていたが、岩原スキー場前には停車したのだろうか記憶が薄いのだが・・・



プラットホームへ出てみた。有効長が長いホームがかつての盛栄を無言で語りかけていた。国鉄時代は「毎日営業の臨時駅」であったが、臨時駅にしてはかなり立派な造りである。
実は今回の旅で、越後湯沢を出て最初に到着したのがここ岩原スキー場であった。スキー場なのに何故か暑い・・・この奇妙な現象の中、私の「国境越え」はまだまだ続くのであった。

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国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。信越編② 熊ノ平
2023-10-07

何とも物騒な駅名であるが、既に廃止された駅「熊ノ平」は現在は安中市が管理している。
信越本線の横川~軽井沢間にあった信号場で単線時代は列車交換が行われたが、両脇をトンネルに挟まれ有効長がとれなかったため、かつての湯田中に近いイメージの変形スイッチバック駅であった。
複線化されてからは変電所としての意味合いが濃くなったが、実質的には閉塞境界としての役割をしていた。



写真の順番が前後するのはわかりやすくするためであるが、ご覧の通り国道沿いに駐車場があり、そしてバス停もある。つまりここが熊ノ平への拠点となる場所だ。私はこの駐車場(無料)に停め旧・熊ノ平信号場へと向かった。それにしてもご覧の通り、スティーブ・ウイリアムスのバックドロップなみの急角度な階段が続く。果たして本当にこの上に駅があるのか・・・
以前は旅客駅になった事もあったが、私の知る現役時代は信号場に降格してからである。
旅客駅だったと言っても駅周辺に集落や民家があるわけでもない。いや、あったかも知れないが、鉄道運営に影響を及ぼすようなほどの数値ではないだろう。やはり列車の運行上の都合や保線員達の便宜を図るためのものと思われる。


急角度な階段を登りきるとご覧の平坦な場所に出るが、この平坦な場所こそ熊ノ平駅の入口となる。この急角度な地形によくこうした平坦な場所を形成したかと思うと非常に頭が下がる思いである。
さて、私は2023年の夏にこの地を訪問したわけであるが、とにかく暑い!連日の猛暑の中、よく旅に出たなと自分でも感心してしまうが、この熊ノ平訪問はとても便利だった。まず駐車場があった!そしてその駐車場の脇には横川~軽井沢間に運転されている代行バスの停留所もあったのだ。鉄道遺産のアーチ橋にもほど近く、旧線跡はハイキングコースとなっているため気軽に辿る事ができる。ただ、夏場だけは避けた方がよさそうだが、意外にもその手の人物的ギャラリーが多数いらっしゃっていた。
私は今回、アーチ橋などの散策は見送ったが、熊ノ平は散策させていただいた。

道しるべか示す方向にはアーチ橋がある。アーチ橋へは既にマイカーで下部のみ訪問させていただいたが、今回は猛暑という事でアーチ橋への徒歩によるアプローチは断念した。
まず駅へのアプローチであるが、山に張り付いたようなかなり角度のある長い階段を登らなければならない。私の妻は数年前に足を骨折しボルトが組み込まれている。普段の生活での歩行は問題ないが、長時間、長距離の歩行は困難で車椅子を要する。そのため、タイガードライバー'91並みの角度がある階段を利用しなければならないので、確実に熊ノ平の姿を見ることはできない。それくらい険しい道を辿らなければならないのだ。もちろん現在は観光化されているため登りやすく加工されてはいるが、やはり現役時代に普通に駅として利用しようとする場合はかなりのリスクがあったであろう。
だが、基本的には信号場とてして設置されたわけであるからいわば「業務用」なわけで、敷設時については一般の旅客に関してアウト・オブ・眼中だったのだろう。いずれにしても、私のようなレールファンにとってはこうした時刻表などに出てこない「隠れキャラ」は異様にそそられる想いである。

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国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。信越編① 軽井沢
2023-09-30

新幹線の停車駅になったのは1998年の事であった。それまではアプト式こそ廃止されたていたものの、この区間専用の機関車による補助を強いられ、ここ軽井沢ととなりの横川は全ての列車が停車しなければならなかった。碓氷峠は日本有数の難所としてその名を馳せ、我々の先輩たちはその難所を越えるために血の滲む努力と苦労をなされてきた。私は今回マイカーでの訪問になったが、新幹線や高速道路など、この碓氷峠越えを気軽にできる手段を選ばす、私はあえて熊ノ平経由を選んだ。つまり軽井沢へは群馬側からのアプローチとなったのだ。
熊ノ平の紹介は次章になるが、横川から出発して200以上ものカーブと上り坂を越え登りきった所に軽井沢はあったのだ。日本屈しの避暑地として名高い軽井沢はものすごい高原にあり、先輩達はかねてからこの地に足を踏み入れる事に血の滲むような努力をしていたのだ。



立派な駅舎に生まれ変わったのは新幹線開通時であるが、在来線は隣の横川までが途切れてしまった。そして軽井沢から長野方面へ向けては経営者も変わり、様々な風景が変化した日本有数の避暑地である。
かつて、この軽井沢と草津温泉を繋ぐ草軽鉄道があった。今回の旅で、実はこの草軽鉄道の取材を予定していたのだが、タイムオーバーで軽井沢に着いた時点で諦めてしまった。軽井沢より北上し、万座・鹿沢口と大前を取材し、更に吾妻線を辿りながら伊香保温泉へアプローチする予定であったのだが、残念ながら実現しなかった。だが、この軽井沢より万座・鹿沢口へ抜けるルートこそ草軽鉄道のルートそのもので、日本有数の避暑地と温泉街を繋ぐルートに私は大変興味を持ったのだ。
ただ、この草軽鉄道は建設の経費を抑えるためにスイッチバックやカーブを連続させ、所要時間がかかりすぎてしまった結果、利用者が振るわなかった。つまり、その経費を掛けなかった事が仇となり、結果として利用者数が思惑通りにならずに廃止になってしまったわけであるが、例えトンネルやルート選択に相当投資したとしても、モータリゼーションの影響を間違いなく受けたであろうから何れ廃止になった事だと思われる。

以前は機回し線など多くの側線があったと思われる場所は新しい何かが生まれる予兆を感じる風景であった。しかしながら、新幹線が開通し20年以上経過しているはずであるが、令和の現在になってから更に進化するとは、さすが日本有数の避暑地である。
さて、私が軽井沢に到着した時には多くの観光客で賑わっていた。夏はゴルフ、テニス、冬はスキーなどバリエーション豊富な軽井沢はどちらかというと高貴なイメージがあり私のような貧困層など寄せ付けない雰囲気を醸し出すような感じがしたが、意外にも若者を多く見かけた。喫茶店なども割りとリーズナブルであり、私のような庶民でも楽しめる場面も少なくなかったが、感染症の制限が解除された事もあり、その数は通常に近い形になりつつあったのであろう。そんな軽井沢をじっくり堪能できたのも、私がレールファンであったからだと思う。恐らくレールファンでなかったら一生軽井沢へ訪れる事はなかったかも知れない。

駅舎内に入ってみた。早速目に付いたのが「名物」である。国鉄時代はもちろんお隣の横川でお目にかかれたものであるが、新幹線が開通し、こうして立ち食いそば店にも姿を現すようになった。
さて肝心の駅であるが、在来線の横川~軽井沢間が廃止され補助機関車の付け替えが必要無くなった事から構内はスリムになった。そしてしなの鉄道となった在来線と新幹線は同じ高さの位置にホームがあり、私がイメージしていた「新幹線は高架」という概念が無く、なんとなくフランス辺りの鉄道風景的雰囲気なイメージになるのであろうか。もちろん、在来線と新幹線の乗り換えの際には中間改札があるのは当然の風景であるが、ただ軽井沢の場合の両者は経営母体が異なるため、中間改札では無く両者の独立した改札を通過しなければならないのでやや手間がかかりそうだ。
それより、私からしたら軽井沢が終端駅である事が不自然でならない。もちろん、現在のそれは当たり前であるのだが、横川~軽井沢間が廃止されたことで貨物列車の往来とかどうするのかみたいな単純な疑問も生まれてきてしまう。だが恐らく高速道路によるトラック輸送にシフトしているのと、他の路線を経由すれば、例えば東京からなら長野方面へは問題はなく、当然ながらその事を視野に入れての横川~軽井沢間の廃止という判断であったはずだ。もちろん新幹線開業後は在来線の旅客輸送が減るわけであるから名より実を取った形になった。



こちらはコンコースを撮影してみた。ご覧の通り、実に広々としているが、しなの鉄道と新幹線との間には高低差がない。つまり私個人のイメージでは新幹線は常に高架上を走っている感覚であるが、ここ軽井沢ではしなの鉄道と新幹線が同じ高さの位置にホームがある事になる。
今回の旅において、伊香保温泉へのアプローチとして軽井沢方面への訪問は一種の通過点と考えていた。だがしかし、日本有数の避暑地には思いがけないドラマが隠れていた。「そこに鉄道を敷く!」という先人たちの熱き想いが2本のレールに込められていたのだ。その思いは次の熊ノ平やアーチ橋に向かい横川へ繋がっていく。私はその技術の高さに、そしてアーチ橋の高さにただただ敬服するのみであった。

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